ヴェイユの「中間的なもの」など

重力と恩寵』のなかの、「中間的なもの」と題された章には、次のような文章がある。
(以下、ページはちくま学芸文庫版から)

ほろぼすのは冒瀆になるというのは、いったい、どういうものだろう。低いものではない。そんなものには重要性はないからだ。高いものでもない。それは、ほろぼそうとしても、手が届かないから。中間的なものだ。中間的なものは、善の領分でもあり、悪の領分でもある。
 どんな人間からも、その人の中間的なもの、すなわち、よいものではあるが、相対的で、いろんな要素の混在したもの(家庭、祖国、伝統、文化など)を奪いとってはならない。こうしたものは、たましいをあたため養うもので、それらがなければ、聖人でもないかぎり、人間としての生活が不可能になるはずなのである。(p238〜239)

この世にある本当の幸福は、中間的なものである。人は、自分の所有する幸福を、単に中間的なものにすぎぬとみなすことができてはじめて、他人の幸福を尊重することができるのである。このことには、人がすべてそういう幸福なしにすますことのできる点に向かって歩み出しているという意味が含まれている。たとえば、ほかの国々を尊重するためには、自分の国を偶像とするのでなく、神にいたるひとつの踏み段とみなさなければならない。(p239)

ヴェイユは、このように「中間的なもの」の重要性を認める一方で、それらがあくまで「中間的なもの」であるということを忘れられ、偶像とされてしまうことの危険を語る。
「中間的なもの」が偶像と見なされる原因となるのは、「社会的なもの」と呼ばれる領域がもつ力だ。「社会的なもの」は、「サタンの領分」であると、明確に述べられている。(p261)
では、その力はどこから来ると考えられているのか。

(前略)相対性に絶対性の外観をまとわせるのは、社会的なものである。このまちがいを避けるには、関係づけに思いいたらねばならない。関係づけは、社会的なものをはげしくつき放してとび出す。それはただ、個人だけがよくすることができる。社会は洞窟であるが、そこから出るのは、孤独でなくてはならない。
 関係づけは、孤独な精神にふさわしいことである。いかなる群衆も関係づけについてまるで理解することができない。関係づけとは、「・・・・に対しては」また、「・・・・に限っては」よいとか悪いとか考えることである。こういうことは群衆の手にあまることである。群衆は、その上につけ加えてみたりはしない。(p260〜261)


ここで、ものとものとの「関係づけ」への注意ということを不可能にする「群衆」の思考と呼べるようなものが、「社会的なもの」の悪の根幹だと考えられてることがわかるのではないかと思う。
つまり、「マス」(集団)的なものによる、「たましい」の実在の領域からの切り離し、のようなこと。


「国家」と、「くに」や「国」とを区分するヴェイユの国家観も、この点を重視して理解する必要があるのかもしれない。
つまり、その批判の標的は、全体主義や官僚制のようなものとは別のところに、集団的な生のなかで人間の存在が「実在」から切り離されてしまう、抗いがたい(内なるものでもある)仕組みのようなものにこそ向けられていたのではないか。

(前略)だが、国家は、そのままでは超自然的な愛の対象とはならない。それは、たましいをもたない、大怪獣である。(p267)

しかしながら、くにはどうか・・・・
 だが、それは社会的なものではない。人が呼吸している空気ほども意識することがない、人間的な環境のことである。自然や過去や伝統との触れあいのことである。
 根をもつことは、社会的なものとは違うことなのだ。(p267)

やはり、「実在」ということをどう捉えるかが、ヴェイユの文章、とくに社会についての彼女の考えや感覚を理解するうえで重要だと思う。
ぼくは『重力と恩寵』のなかでも、たとえば次のような一節は、政治的にも(彼女がユダヤ人だったことを考えればなおさら)きわめて深い意味をもったものだと思う。

ひとつの町がほろんでなくなってしまうことと、その町の外へ追放されて二度と戻れなくなるということとには、まったくもって非常な違いがあることを、多くの人たちは、心の底から感じていない。(p030〜031)

重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫)

重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫)