『暗い時代の人々』

そして自分の才能よりはむしろ幸運を頼みとしていたこと、非凡さよりも自分の幸運を信じていたことこそ彼の誇りであった。(「ベルトルト・ブレヒト」より)

暗い時代の人々 (ちくま学芸文庫)

暗い時代の人々 (ちくま学芸文庫)

ちくま学芸文庫から出ているアーレントのこの本については、前に少しだけふれた


まだ全部を読んでいないのだが、なんとも素敵な本なので、気に入ったところを抜粋して紹介しておきたい。
この本は、アーレントにとっての同時代人や、昔の人(レッシング)についての人物評みたいな文章を集めている。いずれも軽く読み流せる内容ではないし、文章そのものも難しいようだ。しかし、魅力にあふれた散文である。その大きな理由は、アーレントの人間や人生に対する柔軟な見方、考え方が、よく示されているからだと思う。


まず、冒頭に置かれた「暗い時代の人間性」という講演では、レッシングというドイツの有名な批評家、思想家みたいな人について述べられている。それだけの話ではないのだが、ここでは特にその部分にスポットを当ててみる。
レッシングは「論争」を重視したが、論争における彼の姿勢は、次のようなものだったという。

(前略)かれは論争のなかで、問題になっている事柄の真偽の程度を一応度外視して、それが公衆によっていかなる評価を受けているかに従って攻撃あるいは弁護することができたのです。(p019)

レッシングにとって批評とは、つねに世界の側に立ち、あらゆる事柄をその時点での世界における位置によって理解し評価しようとすることを意味します。(中略)レッシングの世界への参加が、そのために無矛盾性の公理や首尾一貫した整合性への要求をさえも犠牲にするところまで貫かれるのをみると驚かざるをえません。(p020〜021)

かれの「自立的思考」と行動との密かな関係は、かれが決して思考と結論とを結びつけようとしなかったことのなかにあります。事実、かれは自分の思考がみずから提出した課題の最終的解決を意味するような結論を求めることをはっきり非難しました。(p023)


つまり、レッシングの姿勢は、徹底して批評的でありジャーナリスティックだったと言われているわけだが、こうした姿勢は現在の社会ではきわめて重要なものであるにもかかわらず、忘れがちであるものだ。
そしてこの講演をとおしてアーレントが導き出してくるレッシングの姿勢の要点は、彼が「真理」よりも「意見」を、意見と意見との差異(距離)を重視し愛した人であったということにある。
この講演録は、非常に多くの示唆に富むものだが、レッシングのこうした思考と言論のあり方を知ることができるだけでも、読む価値が十分にあると思う。

ブレヒト

ぼくにとっては、ブレヒト論は、もっとも魅惑的な論考だった。
アーレントブレヒトについてのとらえ方の出発点は、ブレヒトが詩人であったということであり、詩人とは「信頼可能性」を持ちえない存在であるということだ。

詩人にそれが与えられないのは、空高く舞上ることを業とするものは重力を避けねばならないからだ。かれらは繋ぎとめられてはならないのであり、それゆえ他の人々が負わねばならないような責任を背負いえないのである。(p328〜329)


アーレントはこういいきるが、では、詩人は歴史や現実に対して、いかなる責任をも免除されるべき存在なのか。むしろ逆なのだ、というのがアーレントの結論である。
なぜなら詩人には、

言えないことを言わねばならず、みんなが黙っている場合に沈黙していてはならず、それゆえみんなが口にすることについてはいっそう慎重でなければならない(p353)


という、いわば本性上の責務があるからだ。
この視点から、詩人であり共産主義者であったブレヒトの行程を、深い理解と批判とともに追っていった末に展開される、この論の最終部分でのアーレントの思考は、息をのむようなものである。

この考察の最初において私は、詩人に対してはある種の行動の自由を、通常の事態においてわれわれが相互にほとんど認めあおうとはしない範囲までに認めることを提案しておいた。私は、これが多くの人々の正義感を傷つけるものであろうことを否定しない。(p382)


しかし、ここでアーレントは、「判断すること」と「許すこと」の差異について述べるのである。「許すこと」は、「正義」と結びついた法のもとでの平等という考えとは、根本的に異なる法則にしたがう行為なのだと彼女はいうのだ。

法の尊厳はわれわれが平等であるべきことを要求する。すなわち、われわれの行為のみが勘定に入り、それを犯した人間は勘定に入れないことを要求するのである。これに反して、許す行為は人間を考慮に入れる。どのような許しも殺人や盗みを許すのではなくて、殺人者や盗人だけを許すのである。われわれはつねに誰か人間を許すのであって、何かものを許すのではない。(p383)


現在の日本と世界では、法のもとでの平等についてのこのような観念が十分に生きているかどうかも疑わしい。だが、このような平等と正義についての考えが十分現実のなかで達成されたとしても、「許すこと」の地平はそれとは別個の精神的な努力によって切り開かれ確保される以外ないのだということを、アーレントは言っているわけだ。
こう主張するアーレントの筆は、さらにつぎのような瞠目すべき言葉を書きつける。

(前略)したがって正義はすべてが平等であることを要求するのに対し、慈悲は不平等を主張する。不平等が意味するものは、あらゆる人間は、かれがなしあるいは達成したことが何であれ、それ以上のものであるし、またあるべきだということにほかならない。(同上)


こうして引用されるのが、次のフレーズを含むブレヒトの詩「あらゆる男の秘密のバラッド」(野村修訳)の一節だ。

だが、やつを叩っ殺せ、かまやあしない
もし男が、その皮膚から髪の毛から 
いっさいが、その悪いまた良い行い
の、行為者以上のものではないのなら


このような「許すこと」の地平の存在を確認したうえで、アーレントは、その行為の過失に対する歴史的な責任を詩人が一般人に勝って免れうることと、詩人がある時代においてそれなしには人々が生きられないような言葉を鋳造するという課題を負っていることとが、表裏であるとかんがえる。
スターリンの時代、とりわけ東ドイツに移住してからのブレヒトは、そのような言葉を鋳造することができなかった。それはブレヒトが、現実の状況に呑み込まれて詩人としての(如上のような)責務を放棄したことのあらわれだと考えられ、まさにこの故にこそ、詩人ブレヒトの歴史における罪と責任は、厳しく問われなければならない、とされるのである。
詩人であることには、より多くが許されるという特権と表裏に、その表現しえたものを基準としてより厳しく責めを負うという、両様の「不平等」が課せられているのだ。これが、アーレントがこの論考で示唆している、「正義」とは異なる地平の展望である。
それは、法的な掟とは別の、生命と「許すこと」にまつわる領域の掟であるといえるだろう。
彼女はこの掟を、古代ローマの格言を倒置させて、「牛に許されていることもユピテルには許されていない」という言葉によって簡潔に表現している。
このアーレントの「許すこと」の思想を、可能にしているものは一体なんだろうか。これは、この本を読みながらつねに浮かんでくる疑問でもある。

ベンヤミン

三つのパートからなるベンヤミンについての文章は、筆者が生前のベンヤミンと親交をもった時期があるだけに、本書のなかでももっとも詳細な論であり評伝であるといえそうだ。
ベンヤミンの並外れた生活力の無さや、友人たち(ショーレムブレヒトアドルノなど)との複雑な関係から、その人となりと思想を描きだすアーレントの筆致は生気に溢れている。また、スペインとの国境を越えることが出来ずに自殺した彼の最後についての記述も、胸に迫るものがある。
そのなかで、とくにぼくが関心をもったのは次の点。
ベンヤミンは当時鋭く対立していた二つの立場、つまり共産主義シオニズムとの間で、最後まで態度を決定しなかった。それは、このいずれの立場に対しても彼が距離を置きつづけたことを意味しているが、同時に、次のようにも言えるものだった。

ベンヤミンはきわだった、おそらくは独自の方法で、長年の間自分のために両方の道を開いたままにしておいたのである。(p291)


アーレントによれば、ベンヤミンのこうした態度は、彼が属していた当時のドイツのユダヤ人のブルジョワジー階級という、特殊な社会の条件をよく知らなければ理解できない。ベンヤミンのような青年たちにとって、彼の親族を含む西欧のユダヤ人のブルジョワジーたちは、同化を拒みつづける「東欧ユダヤ人」に責任をおしつけることで、反ユダヤ主義が支配する社会の現実から逃避しようとする、自己欺瞞的な集団に見えたのだ。
シオニズム共産主義の二つは、ベンヤミンの父親たちの世代には激しく毛嫌いされた思想であり、逆にベンヤミンたちの世代にとっては、

両者はともに幻想から現実へ、虚偽と自己欺瞞とから誠実な生活への逃げ道であった。(同上)


このような時代的な条件を明らかにした上で、アーレントはこの二つの思想が、ともにベンヤミンにとっては「現存の状況を批判する」否定のためのものであったという側面を強調し、彼の思想の独自性を論じていくのである。
この丁寧な論じ方が、アーレントの文章の重要な特徴だとおもう。


ところで、ベンヤミンの思考がもっていた特徴を、アーレントはたとえば次のように記述している。

直接的にまた実際に論証できる事実や、単純で「意味」の明確な出来事に関心を持つベンヤミンは、理論や「観念」には大きな関心を抱いていなかった。(p259)


本書に収められた論考に一貫しているのは、各人が持つ思考や精神のスタイル、形式の個性を認めようとする、アーレントの非常に柔軟な感性のようなものである*1

ブロッホ

かなり難解なブロッホ論の要諦は、彼が他人を救助すること、とくに他人の生命を救助することを、何よりも重要な行動の基準であると考えていた、という点である。
これはひとつには、死を絶対的な非価値と考えるキリスト教とそれ以降の哲学の伝統にブロッホが忠実であったことを示している、とされる。つまりアーレントはそこに、キリスト教特有の「生命それ自体の永遠性」の思想の現代版を見出し、それに対して全体主義を経験した現代においては、死よりも過酷な苦痛というものが存在するということを主張する。

われわれは今日、殺すことは人間が人間に課しうる最悪のことではないこと、また他方で死は人間が最も恐れていることではけっしてないことを知っているからである。(p199)


この断定の激しさが、アーレントの文章のもうひとつの特徴だといっていいだろうか。
だが、アーレントブロッホの「救助」の思想のなかに見出しているものは、そうしたキリスト教的な価値観ばかりではない。
人間性」の本質を、世界の「無政府性」から人々を救いだす「強制的必然性」であるとするブロッホの思想の倫理性の根は、どうやら別のところにあったとアーレントは推察するのである。

(前略) ブロッホにとって他の人々との関係は、すべて窮極的には「助力」という観念に、救いを求めるどうしようもない声に、支配されていたことがわかる。「倫理的要求」の絶対性(「概念の統一性は侵されず、倫理的要求を侵さない」)を彼は当然のこととみなしていたため、それを論証する必要さえないものと考えていた。「倫理的要求の目標は絶対的なもの、無限なもののなかにある」。このことは、あらゆる倫理的行為は絶対的なものの領域において遂行され、相互に助力を得ようとする人間の要求は、けっして終わらず、つきることがないことを意味している。(p231)

とりわけかれは、文学と認識とが、何が必要とされているかという知識から、必要とするものの救済へと、かつて跳躍することに成功したことがあるかについて疑い始めていた。(中略)この使命は倫理的命令であったし、避けることのできない仕事とは人々の救いを求める声だったのである。(p232)


私見では、ブロッホと同時代のオーストリアに生まれた哲学者ヴィトゲンシュタインも、同じようにこうした「倫理的要求」を自明なものとみなしていた。こうした自明さの意識が、どういう社会的・歴史的な条件のなかで見出されるものなのかは、よくわからない。
逆に、どのような条件で見失われるのかは、いえそうな気がするが。

同情心

本書を読んでいて印象的なのは、アーレントが、ここで論じている彼女の同時代人たちに共通したものとして、他人への熱烈な「同情心」をあげていること、またその両義性を強調していることである。
ブレヒトにおいても、彼が危機や苦難に瀕している他人を救おうとする熱情を持っていたこと、そしてそうした感情や行為が「自然な」ものだと考えていたことが強調されている。
だがブレヒトの場合重要なのは、彼がこの「同情心」が憐憫にとどまることの危険を熟知していた点にある。

ブレヒトの戯曲におけるドラマティックな葛藤はいずれも似通っている。同情心にかられて世界変革に着手したものは良くありつづけることができないというのである。(p365)


ここからブレヒトは、同情の衝動を「怒り」の衝動へと「転換」することの重要性を見出し、それが彼の共産主義への接近につながったと、アーレントは分析する。
憐れみという意味での「同情心」の限界や欺瞞性(そしてまた、同胞愛という意味での「同情心」の限界)は、アーレント自身も共有していた認識だが、しかしそもそもの発端にある「同情心」という「動物的」な感情を、アーレントは言外にもっとも重要なものと考えているようにも読めるのだ。
このことは、本書の冒頭におかれたレッシングについての講演のなかで、こう述べられていることを考えあわせると、よくわからなくなる。

(前略)人間は他人の苦痛をみることで自分自身の苦痛に駆られ、かついわば強制されるのでなければ人間的に行動できないほど卑しい存在なのでしょうか。(p032)


こうしたことは、特にルソーの「同情心」に対するアーレントのとらえ方にかかわる事柄であり、彼女の「公共性」の思想の核心に触れるところだとも思うが、いまはこれ以上ふれることができない。


最後に、デンマークの作家アイザック・ディネセンについて書かれた文章は、他の論考とはやや趣を異にするが、含蓄にとんだたいへん魅力的なものである。
そのなかから、一節だけを引いておこう。

人生を想像力のなかで反復することがなければ、けっして十分に生きることはできない。「想像力の欠如」は人々を「現存するもの」から妨げる。(p154)

*1:たとえばブレヒトについては、「問題の核心にいたる、透徹した、非論理的で非黙考的な知性」というふうに語られる。