『コロッサル・ユース』

『ヴァンダの部屋』を撮ったペドロ・コスタの新作『コロッサル・ユース』という映画を見てきた(大阪九条の「シネ・ヌーヴォ」で)。

http://www.cinematrix.jp/colossalyouth/


前作とはだいぶ趣向の違う映画になっていた。
再開発のため、長年住んできたリスボン北西郊外のフォンタイーニャス地区から強制的に立ち退かされた移民や貧しい人たち。そのほとんど(前作の主人公ヴァンダを含む)は、近代的な集合住宅(アパート)に住まわせられることになったのだが、わずかながら元の家に住んでいる人もいた。その一人の、アフリカ系の老いた移民労働者の男ヴェントゥーラが主人公である。
彼はポルトガルの植民地から独立した(75年)アフリカ西部の沖合い、カーボ・ヴェルデという島国の出身である。
同じ島の出身である妻にも出て行かれ、子どもたちとも疎遠となったこの男の、移民してきてからの数十年の回想と、フォンタイーニャス地区時代からの友人であるヴァンダたち性別も年代も肌の色も異なる友人たちとの、奇妙なつながりのようなもの、また子どもたちとの関わりの様子が、重厚な映像のなかにたんたんと描かれる。
(前作と同様、登場人物は、すべて本物のフォンタイーニャス地区の住民か、監督の知人、友人だそうである。)


あのヴァンダがすっかり「おばちゃん」になり、子どもも出来てたのには、びっくり。はじめて映ったときは、誰か分からなかった。
ただ、彼女は、長年の麻薬の使用のためか肺を病んでおり、幼い子どもを抱えた先行きに暗い影が落ちていることが描かれる。
この映画でもっとも際立っているのは、圧倒的な「壁」の映像だ。破壊されていくフォンタイーニャス地区のバラック的な家々の壁、無味乾燥な集合住宅の白い内壁、リスボンの美術館の壁。
人間が存在するときも、また立ち去った後も存在し続ける建物の壁面を、圧倒的な存在感で映し出す。


前作以上にはっきりしているのは、この映画では未来に向けての希望やビジョン、メッセージのようなものが何も語られていない、ということである。
かつて、そこに移民や貧しい人々のコミュニティがあり、そこに刻まれた歴史の記憶があった。
しかしそれは、時代の変化によって回復不能に破壊され(「再開発」)、人々は無機質な居住の場へと移り住むことを余儀なくされる。
その変化のなかで、主人公の男は、自分自身が歩んできた人生の空虚のようなものに直面する。それでも彼には、かつて同じ地区で共に生活した人たちとのつながりは、かろうじて残されている。それは、「家族」とは違う、別のつながりの質を暗示しているのかもしれない。
だが、映画はそういう光や道筋を明確に指し示すわけではなく、すべての生活や記憶のよすがが解体され撤去された後でも、人が生き続ける限り、そこに存在していくに違いないもの、人間たちの生とつながりのか細い流れと、物質の持続のようなものが、ある種の残酷さと共に映し出されるのだ。


とくに印象に残った場面。
主人公ヴェントゥーラは、息子とは事情があって長年別に暮らしている。息子が幼い時、捨てたような形になったらしい。
一方、娘とも関係が悪く、娘はやはりフォンタイーニャス地区の一軒家に別に暮らしている。妻が家を出て行った後、ヴェントゥーラは何度か娘の家を訪れ、次第に心を通わせるようになる。
だが、最後にこの地区に残った二人にも、立ち退きの時期が迫っている。
この古い家屋の壁には、死者や悪魔やライオンや警官や、さまざまな幻影が見えるらしい。娘は、「あの白い建物(集合住宅)に引っ越したら、あれらも見えなくなるの?」と訊ね、ヴェントゥーラは「そうだ」、と答える。
すると、娘は「おしまいね」と呟く。


またこの後、ヴェントゥーラははじめて、故郷のカーボ・ヴェルデで妻と最初に出会ったとき、心を通わせたときの話を娘に語り聞かせる。
それを聞いて娘は、「孫に語り聞かせるべき話ね」という。
これは、この映画のなかで、未来が希望をもって語られる数少ない場面のひとつである。


だが、こうした場面が希少であるということは、この映画が人間たちの未来を肯定していないということではない。
この映画は、希望やビジョンよりも以上に、それでも生きていく人間たちの姿と、その関わりや信頼を、静かに肯定しているのだと思う。