『天然知能』(郡司ぺギオ幸夫)

 

 

 

天然知能 (講談社選書メチエ)

天然知能 (講談社選書メチエ)

 

 

 

この本は、僕にとってはすごく難しい内容だったのだが、最後の方の部分で、考えさせられるところがあった。それをとくに書いておきたい。

まず、表題の「天然知能」ということだが、冒頭で簡潔に説明されている。

 

『本書で論じられるものは、天然知能という新しい概念です。天然知能は、人工知能の対義語として自然に根付いている知性、を意味するものではありません。決して見ることも、聞くこともできず、全く予想できないにもかかわらず、その存在を感じ、出現したら受け止めねばならない、徹底した外部。そういった徹底した外部から何かやってくるものを待ち、その外部となんとか生きる存在、それこそが天然知能なのです。(p9)』

 

 

この概念が、どのような世の中の趨勢に対峙して提示されてるか、次の文章を読めば分かりやすいだろう。

 

『本書では、自分にとって意味のあるものだけを自らの世界に取り込み、自らの世界や身体を拡張し続ける知性を、「人工知能」と呼びますが、それもまた、自分の「外部」を観察し、絶えず「外部」世界とやりあっている知性のように、一見、見えてしまいます。

 しかし、人工知能の「外部」は、自分にとって都合のいいものが集められた外部です。自分にとって意味のないもの、邪魔なものは、目にも入らない。知覚しないのです。いずれ自分の役に立ちそうなものだけが知覚され、自分の世界に組み入れられるか否か詮議される。そのような、括弧つきの「外部」を知っているだけで、冒頭述べた外部を理解した気になっている人たちの、なんと多いことか。(p10)』

 

 

これ以後、「天然知能」に関して色々と語られていく。

たとえば次のようなこと。

 

 

『私たち天然知能は、向う側感を持って世界を認識しているのです。視界の外に、見えぬものの存在を確信できる。私たちの知覚や認知は、むしろこのように、単独の感覚の外部を伴って成立するものではないでしょうか。(p99)』

 

 

知覚や認知以前のところで、見えないものの存在を感じ確信している(そして、その到来に備えている)ような、生の構え、それが天然知能というあり方だというわけだ。

ところで、それは私たちの日常からかけ離れた特別なものではないこと、むしろ日常に深く秘められた態度とも言えるのだということについて、本書の終りの方で著者は次のように語るのである。

ここが、僕が注目した箇所だ。

 

 

今の科学では、人間の行為は機械論的に決定されたもので、自由意志の存在する余地など

無いということになってきている。だが、日常生活においては、どんな人でも(決定論者の科学者であっても)、自分の意志によって物事を決めているかのように思ってるのが普通であろう。なぜ、こんな矛盾した意識が可能になるのか?(著者は、こういう論じ方はしてない。ここまでは、僕なりの勝手な理解である。)

著者は、最新の哲学の知見から、自由意志と決定論は二者択一(ジレンマ)になっているのではなく、(量子力学でよく用いられる)局所性というもう一つの概念を加えた「トリレンマ」になっており、この自由意志・決定論・局所性の三つのうち、一つが欠けた場合には、残りの二つは両立するのだという考え方を参照する。

つまり、局所性が放棄された場合には、自由意志と決定論は両立するのであり、われわれの日常的な意識のあり方は、それを体現したものだというわけだ。

では、局所性とは何のことか。著者の説明を見てみよう。

 

『局所性とは、空間的に隔てられた二つの場所で、一方が他方の情報を、情報を持つものに何ら影響を与えることなく、知ることができることを意味します。このことは、空間的に隔てられた場所の、知ること(観測)からの状態の独立性を意味するものです。(p184)』

 

 

『この局所性の定義は、空間全体を見渡して場所ごとの情報を知る、超越的存在を意味するのです。逆に、局所性が成り立たないとき、知ることの範囲は限定的となります。しかしその知ることの外部に一切関わらないというのではなく、知ろうとして影響を与えてしまう。局所性の不在は、このように見なすことを意味します。(p185)』

 

 

ここは分かりにくいのだが、「空間全体を見渡して場所ごとの情報を知る」というのは、近代科学(量子力学以前)の客観的な知のことを言ってるのだと思う。それに対して、量子力学では非局所性ということ、つまり観測者が対象から分離できず、影響を与える(もつれている)みたいなことが重視される(この辺も、僕の勝手な解釈である)。

著者は、この非局所性(局所性の不在)を、自己と外部との境界をはっきりさせず、曖昧なままにしておくことと捉え、日常的な意識に特徴的な構造だと考えるわけである。

この構造は、(「文明」から遠いと見なされるような)「自然に密着した文化」においては、より明瞭に見いだされる意識のあり方だとされる。この本で例として出てくるのは、アフリカの村の呪術を信じる酋長の行為だ。

 

『遠く離れた局所、それは、うかがい知れない外部や他者を意味するはずです。しかし、自然に密着した文化において、他者は互いに影響を与える形で、半ば、分離できない。「わたし」と他者は区別されるものの、完全に分離することが不可能なのです。(p194)』

 

 

だがそれは、もっと一般的に、人々の日常的な意識の或る部分を構成している要素でもあるのだと、著者は言う。

ここからの展開は、かなり衝撃的である。

著者は、「局所性の不在」によってもたらされる、この意識のあり方こそ、事物としてこの世界に到来せしめられ存在する自己が、能動的な「自分」であるかのように思いなされる転換の原因だと言うのである。

 

『(前略)局所性の不在の意味は、この、「わたし」と他者の、区別された上での未分化性にあるのです。

 自分は能動的な意思決定者として振る舞っているが、他者によって受動的に動かされているだけかもしれない、しかしそれが翻って、「わたし」の能動性の起源かもしれないのです。(p196)』

 

 

『わたしを動かすものが「ノーバディ」なのですから、わたし自身を動かす身体操作感を、「わたし」が持つことができるというわけです。徹底して受動的な「わたし」が、ノーバディの能動性を略奪する。それこそが、「わたし」の能動性だというわけです。

 

 私は、受動的な「わたし」が能動性を発揮できる仕掛けは、これ以外にないのではないかと思います。物質として個物化し、「おのずから」生を享けた「わたし」が、主体的に、能動的に、「みずから」世界に向けて働きかけるようになれる。「おのずから」から「みずから」への転換とも言うべき変革は、内と外の境界が「もつれ」ている以外に在りえない。

 タイプⅢの意識においてのみ、「わたし」の能動性が可能となり、身体操作感が可能となる。無意識を含むわたしの身体とその外部の境界も「もつれ」たものですから、身体操作感と同じ理由で、世界から受動的に作られ、誰のものでもないわたしの身体が、「わたし」の身体となるのです。従って、他者を含む外部に対して「もつれ」境界を持つタイプⅢの意識は、「わたし」の身体であるという感覚、身体所有感を持ち得るのです。果たして、所有身体は、「この身体」となるのです。(p217~218)』

 

 

上の文中で「タイプⅢの意識」というのは、非局所性を特徴とする、われわれの日常的な意識の性質のことだ。

著者は、先述の自由意志・決定論・局所性のどれが不在であるかによって、意識のあり方を三つのタイプに分けて分析してるのだが、自由意志が欠けているタイプⅠと、決定論が欠けているタイプⅡとは、80年代の流行語を使えば、それぞれ「パラノ」「スキゾ」に当てはまるのではないかと思う。

それに対して、局所性が欠けているタイプⅢは、日常の意識、いわば「常民」の意識構造を示すものと言えるのではないか。

そして、それが「自己」を形成する際の仕掛けを、著者が「略奪」という言葉で表現したことが、僕にはとくに示唆的だった。

著者は、次のようにも言っている。

 

『タイプⅢは、平凡な我々に最も親和的な意識構造と考えられます。決定論は破綻しておらず、常識的な原因と結果の一致、問題と解決の一致によって、日常的理解をやり過ごします。しかし局所性の不在によって、外部を予期しています。知覚していなくとも、外部の存在を感じてはいるのです。

 純粋なタイプⅢに留まる限り、外部は召喚されず、折角外部に対する感性はあっても、それが創造力として発揮されることはないでしょう。そして多くの場合、平凡な我々は「外部」のような厄介なものを、できるだけ敬遠しようとさえ思っているのです。(p224)』

 

 

著者は、タイプⅢ、つまり日常的な意識の性質は、「天然知能」にとって特権的なものではなく、「天然知能」は三つの意識のタイプの「中間形態」であるとも言っている。

だが、日常的な自己が、著者が言うように「略奪」によって形成されるものだとすれば、われわれが(たとえ「天然知能」としてであれ)、その「外部」を隠蔽し敬遠しようとすること、さらには排除へと向かうことは、かなり本質的な振る舞いだと言えるのではないだろうか?

『知覚していなくとも、外部の存在を感じてはいる』という不安定な状態に留まり続けることは、非常な難事だろう。

それが可能になるのは、この「略奪」の自覚・記憶を手放さないことによってだけではないだろうか。それは、自分が略奪し、抹殺した(こう過去形では言えないが)相手、つまり「他者」の感触を、決して忘れないで生きることだともいえよう。

逆に言えば、われわれがいつも「他者」を攻撃したり抑圧しようとするのは、この(自己にとって)根底的な「略奪」の事実に向き合うことを怖れるからに違いない。本当は他者によって生かされている(また、その事実を隠蔽し、「略奪」している)からこそ、われわれは「他者」を否定(抹殺)しようとするのである。

また、その排除や抹殺の一つの形態として、感じられるだけで顕在化することはないはずの「外部」を、心地よい「他者」として消費するということ、それもまた、われわれ「常民」の文化の暴力的な在り様の一部ではないのか。

この本を読みながら、僕が思いをめぐらせたのは、そんなことである。