「中級国家」と統一・非核化の問題

毎日新聞を読んでる人はご存知だろうが、日曜の経済面にこんな記事が載っていた。


中級国家ニッポン

http://mainichi.jp/select/biz/ushioda/news/20091018ddm008070045000c.html


アメリカの金融機関ゴールドマン・サックスが、朝鮮半島が統一されれば2050年にはGDPで日本やドイツを上回るだろうという予測を出した、とのことである。

ドイツ統一のような無理をしない。当面、通貨も統一せず通行も制限する。徐々に統合する香港方式。北朝鮮の労働力の若さや豊富な資源の作用で大発展するという。はてさて、これをどう評価すべきか。私に明快な答えの用意はない。


2050年というと、えらい先の話でもあり、もちろんぼくにも「答えの用意」などあるわけがない。
朝鮮半島の統一、あるいは分断状況のスムースな解消が、そこに住む人たちの幸福や希望につながるような形で実現して欲しいと願うばかりである。
上に書いてあるプランを読むと(出してとるところがところだから、しょうがないが)、少し不安になるが。


最近知ったのだが、ドイツの場合は、統一にあたって、英仏、ポーランドソ連など、周辺の国々からたいへん警戒されていたらしい。これは、朝鮮半島とは違って、ドイツの分断には、二度の大戦でヨーロッパに巨大な被害と混乱をもたらしたドイツの国力を制限しておくという政治的な意味が、いつからか込められるようになったからだという。
この点では、朝鮮半島は、むしろ被害者の側なので、反対や警戒をする国は、本来なら無いはずである(どうも気に入らないらしい国、それも「巨大な被害と混乱をもたらした当の国家」が、隣にあるわけだが。)。
ドイツの場合、そうした事情から、当初は上の文にもあるような「緩やかな統一」が模索されていたのだが、ベルリンの壁崩壊にともなう混乱のなかで、急激な、西側の市場経済への吸収のような統一のような形になった。これは、望ましいことではなかっただろう。
そして、民主化をすすめた東ドイツ市民運動のなかにも、西ドイツの経済システムとは一線を画する「緩やかな統一」への志向があったが、その勢力は、豊富な市場の物資へのアクセスを希求する多くの人たちの共感を得られず、「西」との一体化を明確に打ち出した政党に選挙で敗れてしまう。こうして、市場経済に対するある程度対抗的な「統一」の可能性は絶たれてしまったのである。


上の毎日のコラムに書かれているような「緩やかな統一」の意図するところは、そういうものとは違うだろう。
あくまで「北朝鮮の労働力の若さや豊富な資源」の利用という、経済的な功利性にもとづくものに思える。要するに、中国のように内部の格差のようなものをうまく経済に利用しようという発想のように思える。
そこに不安がある*1
また、韓国はともかく、朝鮮の社会に東ドイツのような(市場経済への)オルタナティブを模索する市民勢力が育つ可能性も、今のところは考えにくいだろう。


だが、「緩やかな統一」が目指されるという予測は、それはその可能性が小さくないと考えられている現われだろうが、朝鮮の社会の内部にも大きな変容がすでに(その時点までに)起きていることを前提としているはずだ。
そうなると、韓国の方にはもともと市民運動の強力な伝統があるわけだから、「経済発展」ということは別にして、オルタナティブという意味で先進的な一個の社会が、あの半島に実現する可能性は、少なくとも日本よりは(ある意味では残念ながら)ずっと高い気がする。
ともかく、「そこに希望はある」と言える気がし、それはぼくたちにとっても、また希望である(繰り返すが、GDP云々の話は別だ。)。


それにしても、日本が「中級国家」になるというのは、そんなに憂慮すべきことだろうか。
「中級国家」といっても、大国のアメリカは別にして、日本が近代以後目標にしてきた西欧の国々も、その頃にはみな「中級」になってるわけである。
いま現在、日本は一応「世界第二の経済大国」という触れ込みだけど、生活が豊かだとか安定してるとか、希望や余裕があるとか感じてる人の数は、すごく少ないだろう。そしてGDPで言ったら、日本よりずっと下の国であっても、国民がずっと良い暮らしを送っているらしい国は少なくないようだ(もちろん、そうでない国も多くあるだろうことは認めるが。)。
そうすると、経済規模において「上級か中級か」というふうなことと、人々の幸福や安定とは、直接関係がないということは、はっきりしてるわけである。
人々の幸福や安定の方に、あくまで主眼を置く国に、モデルチェンジしていかないでどうするのか。


日本があくまで経済大国にこだわること、また朝鮮半島の統一といったことにも反対し(それは現行の世界秩序・グローバル経済から見ても、周辺のどの国にとっても望ましい選択であるにも関わらず)、むしろそれを理由にして軍事的にも強国化を目指しかねないような現状であることの理由は、日本自身が、かつてこの地域に「混乱と被害を」もたらしてきた国家の体質を、根本的に変えようとしていないことである。
周辺の国々から警戒され、孤立した結果、アメリカの力への依存的な協力か、もしくは自国の力の無理な拡大しかないところに自分を追い込んでいるという状態から、自分自身をぬけ出させることを拒んできた。その脱却のために自国の体制と歴史を直視することを拒み続けた結果、日本は「大国」であり続けることでしか、安定も安心も出来ないような国になってしまっているのである。
これは競争至上主義の論理の普遍的な構造にも思えるが、日本の場合にはとくに、その「経済成長至上主義」のイデオロギーの根本にあるのは、この不安な歴史的心理であろうと思う。その不安につけこんで、さまざまな世論の操作がなされ、軍事力の強化や経済的収奪と破壊が正当化され、遂行されようとする*2


たとえば朝鮮半島に関して、「非核化」ということが常々言われる。
たしかに、朝鮮半島は非核化されるべきである、というより、朝鮮半島は「必ず非核化されなければならない」。
だが、その意味は、朝鮮半島の国自身が核を持たないということに留まらず、核を保有するというオプションを選ぶことのないように、周辺の有力な国々、とくに過去にこの半島に「混乱と被害をもたらした」国家が体質をあらためて、核を含めた軍事的・政治的な(朝鮮半島に対する)脅威を取り去ることを、重要な要素として含むのである。
そうすると、朝鮮半島の非核化の重要な責任を負う主体は、周辺の大国、とくに日本であり、その歴史認識と国のあり方の問題だということが分かる。
われわれはわれわれの努力で、自国の体質を変えることによって、朝鮮半島の非核化のための確実な基盤を作り出していく責任を持つのだ。
するとこれが、日米同盟の再編や、憲法改正という方針と、一致するはずのないことは明らかだろう。


朝鮮半島の統一について、かつてドイツに対して危惧されたような大国化への憂慮を持つ人もあるだろう。
無論、その恐れがないわけではない(その犠牲となるのが、誰かは別にして。)。
だが、この国の場合、独立と統一が歴史的に妨げられてきたことによって、人々にどれだけの不幸が訪れ、今も訪れ続けているかということを、よく考えなければならない。
そのうえで、あるべき統一もしくは共存のあり方を、われわれも自分たち自身の社会変革にも関わる問題として模索するべきだろう。
少なくとも言えることは、朝鮮半島の人々が平和のうちに暮らし、ともかく自由に人々が行き来できるようになるための努力を、日本という国は、当然なさねばならないにも関わらず、まったく行ってこなかった、今も行っていないという一事である。
まるで行っていないのだ、この国は。


ぼくたちが自分たちの国と社会を変えていく努力から切り離されたところで、朝鮮半島の統一や非核化を語ることは、他者に対しても自分に対しても、欺瞞以外のものではないと言うべきだろう。

*1:実際問題、上の予測が示しているのは、統一が「緩やか」に行われること、言い換えれば現行の南北の体制が、基本的には持続することが望ましいという思惑が国際社会の支配的な勢力、特に経済界の中枢にあることを示しているだろう。

*2:ぼくは、市場経済の円滑な進行によって人々の豊かさを確保しようとすることの意義は、決して小さくないと思うけれども、少なくとも今語られている経済原理の根底には、こうした仕組まれた病的な深層心理のようなものがあることは確かで(政治的イデオロギーとは、すべてそういうものではあろうが)、逆に言うと、「経済成長批判論」は一見無謀な主張に思えても、その政治的な欺瞞に対する敏感さを秘めている場合が多いことは、認めるべきだと思う。