『トウ小平 政治的伝記』

とう小平 政治的伝記 (岩波現代文庫)

とう小平 政治的伝記 (岩波現代文庫)


まだ読んでいる途中なのだが、めっぽう面白い本なので、少しだけ感想を書いておく。
著者のベンジャミン・ヤンは、いわゆる文革世代で、トウ小平*1の息子と同じ紅衛兵セクトに属していたが、文革の時期にひどい迫害を受けたらしい。この(トウの)息子の方は、半身不随になるようなのだが、その経緯はまだ分からない。


さて、こんなエピソードが書かれている。
共産党が国民党との激しい内戦を戦っていた1931年、トウ小平は自分が指導的な立場にあった紅七軍という部隊の壊滅の危機に際して、「党中央に状況を報告してくる」と告げて、自分の判断で隊を離れるということがあった。
この行動によって、トウ小平は軍事上の責任を問われることを免れるのだが、これは独断によるものであり、トウ小平自身が大きな過ちだったことを認めているし、彼が批判を浴びていた文革期には紅衛兵によって「軍を捨てた」、「革命を裏切った」と非難の的になった。ところが、当時それ以上批判が大きくなることはなく、トウ小平は決定的なダメージを免れることになった。
それはなぜか?
著者の分析は、こうである。実はこの31年のトウ小平の行動は、40年代前半の「整風運動」と呼ばれた共産党内部の権力闘争の時にも明るみにされ、弾劾の的にされそうになったのだが、当時トウ小平との親密な関係を作っていた毛沢東の政治的判断によって、批判が禁じられた。文革の頃には、この毛の指令がまだ生きていたので、江青文革の指導層は、この問題に踏み込めなかったのだ、というのである。
このようにトウ小平は、はじめは周恩来、後には毛沢東との強いパイプによって、権力の中枢にのし上がっていく。


著者によるこうした分析の当否は分からないが、自分の部隊が一番大変なときに「報告してくる」と言って戦闘の現場を離れ、そのことによって政治的危機を免れようとする抜け目のなさ、敏捷さは、いかにもトウ小平らしい気がする。
ここに、20世紀を代表する政治家としての、並外れた生き方・資質が示されているのだろう。それは、政治的人間としての本能のなせる業に他ならないとも言えるだろうが、それによって救われた人(人民)の数も少なくはないだろう。


だが(31年に)こうして軍務を離れ、家族が居る上海に戻ってきた彼は、そこで不在の間に起こった家族の不幸を知ることになる。

妻の張錫瑗は、出産時に小さな病院で亡くなった。産まれた赤ん坊(女)は、張の妹のもとで数日間生存しただけだった。戻るのが遅すぎたトウは墓で最後の別れの挨拶をした。大学に願書を出すためにちょうど上海にいた弟のトウ墾(先修)が一緒に墓地に行ったといわれている。(p71、原文の「トウ」の字は漢字)


ドストエフスキーの『永遠の良人』の一節を思わせるような叙述だ。
トウ小平は、若い時期に二度結婚しているが、いずれも不幸な経緯があって、短い結婚生活で終わっている。
上の短い記述は、そのうちの一度の事情を説明しているのだが、この家族生活の不幸の陰は、彼の政治家としての敏捷さ、権力闘争での卓越性というものと、どこかで呼応している感じがする。
それは、スターリン毛沢東の私生活が幸福でなかったというようなこととは、違う印象である。
トウ小平の場合、彼の意志に反して、その処世の上の敏捷さの代償ででもあるかのように、家族に不幸がしばしば訪れている、という感じがするのだ。それは何か、ぼくたちが非常によく見知っている、人生の不幸の卑近なあり方であるようにも思える。


著者のヤンは、この主人公に対して強い尊敬の念を表明しながらも、『非凡なことを成し遂げた平凡な男』という評を述べている。
これは、最大級の愛情の表現なのかもしれない。
この本は、そうした人間トウ小平の光と影にも、細やかな光を当てているのである。

*1:トウの字は、表記されないと思うので、以下カタカナにしておく。