『中国の民族問題』

先日、『heuristic ways』さんのこちらのエントリーでも、言及されていた(脚注のなかで)本ですが、たいへん興味深く読んだ新刊の本なので、内容について少し書きます。


中国の民族問題―危機の本質 (岩波現代文庫)

中国の民族問題―危機の本質 (岩波現代文庫)



中国の、とくに新疆ウイグルチベット内モンゴルといった国境に接する地域の民族問題を、古代や、清朝末期から現代に至る歴史を追いながら詳細に分析・解説した本。
今回のチベットをめぐる情勢の急変を受けて、旧著の内容に大幅に論考を書き加える形で出版された本だそうである。
語られていることの要約ではなく、とくに印象深かった箇所を、いくつかとりあげることにする。


まず一箇所目。

集団化や人民公社化があるいは社会改革一般が少数派民族内部の上層搾取階級(農奴主階級、地主階級などといわれる)の既得権益を犯すがゆえに、だれよりもかれらの反動的な反抗をこそ被ったというしばしば見られる中共側の説明は、確かに事実的根拠を持っていないわけではない。だがそのことが直ちに下層被搾取階級が意思決定の主体として社会改革や公社化・集団化を望んだことを意味するとは限らない。(p112〜113)


これは大事なポイントだろうと思う。
中華人民共和国の領土になる以前のチベットにおいて、農民に対する上層階級の支配がどれほど過酷なものだったとしても、中国が行おうとしたような改革をチベットの農民や庶民が望んだということの証明にはならないだろう。
中国側のこういう主張(発想)は、「フセインは独裁者だから、アメリカ型の民主主義の導入を無条件で歓迎するはずだ」という、ブッシュやネオコンの思考と、基本的に変らないものだといえよう。




二箇所目だが、現在の中国の政治状況や民族問題に対する歪んだ対応を「近代化の遅れ」によるものと見なすような中国批判の言説(「われわれの社会よりも遅れた社会だ」という、日本でもよく見られる言説)は、かつての文革派による偏狭で独善的な民族論(民族否定論)に酷似している、という指摘である。
著者は、中国社会を(たとえば民主主義の)「遅れた社会」と見なす欧米や日本などの「近代化論」は、歴史的伝統と前近代性(封建主義)を混同する議論であると批判する。
そして、中国政府が少数民族の伝統を無視するのは、その「前近代化性」によるのでなく、逆に文革時代から中国政府自身が継承している「近代化論」(「民族にこだわるのは、近代化の遅れた連中だ」というような発想)にこそよるものである、と指摘するのである。


また、著者は「近代化論」による中国批判のもうひとつの難点として、それが中国が行ってきた選択を、欧米や日本の影響・圧力から切り離して考えてしまうものであるということをあげる。

こうして近代化論や「アジア的専制」論は革命期から今日に至るまでの中国社会の弊害を論ずる際、中国の近代化ないし資本主義的発展を阻害する要因として自律的要因のみに目を向けるだけで、他律的要因とりわけ論者自身が属する国家(日本・欧米)と中国との近現代における関係史を軽視する難点を免れがたく持っている。(p185)


これは、「戦勝国」による極東軍事裁判などにもある程度あてはまるのではないかと思うが、要するに批判している側の社会自身の加担、責任が隠されてしまう、いわば批判が没主体化されてしまう、というふうな問題であろう。
そして著者は、こうした傾向が、やはり文革時代の民族論にも共通して見られたものだったことを指摘するのである(漢民族少数民族問題に与えた影響の軽視)。
そして、以下のように結論づける。

結局、文革派の国家論も欧米中心の近代化論も、世界を一つの均質な空間に変えることをもって進歩と考える歴史発展観を抜きがたく持っているといえるのである。(p185〜186)


これは言い換えれば、文革当時に猛威を振るった伝統破壊、民族否定の「近代化論」的イデオロギーが、現在のわれわれの社会を支配しているイデオロギーに、意外に似通っている、ということであろう。
これも、たいへん印象深い話だった。





三箇所目は、次の箇所。

読者はダライのこのような非暴力思想もまた、ガンジー思想がそうであったように、強烈な民族主義であることを知らねばならない。民族主義とは、ある民族集団が自分自身の国家権力を保有することを望む感情のみをいうのではなく、むしろ何よりも不当な国家権力によって自分たち民族集団が暴力的に抑圧支配されることを拒絶する感情をいうのである。前者が国家権力の暴力自体を否定せず、かえってみずからが既存の権力に代わって、そのような国家権力の担い手になろうとするポジティブな民族感情であるとすれば、後者はむしろ国家権力による暴力支配自体を拒絶し、その暴力から自由になろうとする抵抗意識に根ざしたネガティブな民族感情である。ダライの思想はむろんこの後者の抵抗的な民族感情によっている。(p261)


無論、著者はダライ・ラマ十四世の思想を、「ネガティブな民族感情」、国家権力(暴力)への志向に回収されないような民族感情として肯定しているのである。
それは、ネガティブだが「強烈」な抵抗的民族感情に他ならない、というのである。
ここも非常に興味深く読んだ。





四箇所目だが、それは中国政府の宗教政策に関する部分である。
江沢民以後の中国の政策は、宗教を未来において消滅するべきものして扱い、それを党による監視と制限のもとに置く、というものになった。
こうした宗教政策は、やはり60年代の中国の民族政策における認識、民族を未来において消滅されるべきものとみなす考え方が復活したかのようである、とするのである。
これは、チベットや新疆ウイグルといった地域で、宗教が民族運動と強力な結びつきを持っているだけに、重要なことだろうと思う。
また著者は、政教分離ということに関して、「政治的支配の宗教」と「政治的抵抗の宗教」とを区分する。後者に留まる限り、宗教が政治に関与したとしても、それは「非政治から政治を撃つ」ということであり、政教分離の原則に抵触するものではない、と断言するのである。


この宗教の問題というのは、とくに宗教と民族、宗教と政治、宗教と国家、そして宗教と暴力、といった問題は、もちろんとてつもなく大きい。
チベットに関連して問われている問題がこのことだとすると、それはまさに日本社会の問題そのものであるかもしれない、とも思う。
おそらく宗教は、暴力の源泉にも、非暴力の源泉にもなりうるものだが、宗教を暴力に結びつけるものは、人間の中の宗教的なものに行使される(国家的な、あるいは資本的な)暴力の影だろう。





さて、最後に五箇所目。
これは、以前にも同じ著者の本について書いた、「ゼロサム・プラスサム」ということに関わる。
まず著者は、現在の胡錦濤政権の政策の特徴のひとつとして「和諧社会論」と呼ばれるものの影響が強いことをあげる。

和諧社会論」は、二〇〇二年十月の題十六回党大会で正式に提起されたもので、社会的対立矛盾を解消する原理として、社会的諸関係の中に存在する「共通利益」に注目し、これを最大限に増大させることに改革戦略の基礎を置くというものである。(p297)


たとえば、市場経済の拡大にともなって富裕層が力を増しても、それを社会主義にとっての脅威とみなすのでなく、この階級と社会主義政権との「共通利益」を模索することで、むしろ共産党の支配(政策)のなかに取り込んでいく。
政権は、同様の方策を、国際関係においても行っている。

九五年の「新安保観」の特徴はこの冷戦思考を払拭し、むしろ外部勢力との「共通利益」を模索し「関係改善」を図ることによって、逆に国内矛盾を緩和させる方向を目指すという発想にあった。(p310)


たとえば、「対米宥和」である。また、これまで国境をめぐって緊張した(ゼロサムの)利害関係にあった、ロシアやインド、中央アジア諸国との関係強化(上海協力機構)。
国際関係に関していうなら、こうした路線によって、少数民族問題を抑え込む、ということが可能になる。
そして、国内問題については、共産党政権と富裕層との「宥和」「和諧」は、それによって貧困層の不満を抑え込む形で「社会的対立矛盾を解消する」目的へと向かうのであろう。


うまくまとめられないが、要するに、仮に敵対する相手と名指したものとの「共通利益」を見出してそれを最大化するという政策(言い分)のなかで、そこから零れ落ちるものたちの切り捨てが敢行されつつある。
壮大な欺瞞としての二大政党的システム?
中国と共にわれわれの世界は、おおむねそのようなビジョンのもとに進みつつある気が、ここを読んでいてしたのである。