『オーウェルの薔薇』

オーウェルの薔薇 - 岩波書店

 

オーウェルというと、ディストピアを描いたペシミスティックな作家というイメージが、欧米でも強いようだ。だが著者は、オーウェルの思想と文学の根本には、経験的な生の肯定があることを強調する。その生涯は、薔薇をはじめとする無数の植物が茂る庭園作りへの情熱と、泥まみれになっての農作業への熱中、そしてオーウェルより先に30代で亡くなった妻との間には子どもが出来なかったが、引き取った養子に対する(妻の死後は)熱心な育児など、未来に向けて生命を育てていく意志に充ちたものだったという。

実際、本書で描かれる、オーウェルの自然に対する知識と愛着の深さ、庭作りや農作業への熱中ぶりは度を外れたものである。このオーウェルの自然愛好と、彼の政治(反全体主義)的な文学との関係について、著者はこう書く。

 

 

オーウェルはその本(『一九八四年』)の別のところで言明する。「党は自分の目と耳から得た証拠を拒むようにと言う」。それだから、感覚でとらえられる物質世界において直接に観察し直(じか)にものに出会うことは、同様に抵抗の行為となる。あるいは、少なくとも抵抗可能な自己を鍛えることにつながる。こうした直接経験でもって頻繁に時間を過ごすことは、思考を明晰にすることであり、言葉の渦巻きとそれがかき立てうる混乱の外に踏み出す方途となる。嘘と迷妄の時代にあって、庭は、成長の過程と時の推移、物理学、気象学、水文学、生物学といったものからなる王国を、そして五感の王国を、みずから学ぶためのひとつの手立てなのである。(p58)』

 

 

つまり、全体主義権威主義の欺瞞及び支配と対決したオーウェルの思想を支えたものは、大地や生命に密着した生の経験の尊重と、そこにおいて未来を信じ育もうとする希望の精神であったということだ。

本書の巻頭に、米国の偉大な黒人女性SF作家オクティヴィア・バトラーの『さまざまな可能性を見極めるために先を見据えて、警告を示そうと努める行為そのものが、それ自体で希望の行為なのである。』という言葉が掲げられているのも、それゆえだ。

 

 

生の経験を重視するということは、欲望を断罪する超越的な立場に立つのではなく、欲望にとらわれて生きる存在でもある自分自身の現実から目をそらさず、どのようにしてその生をより良いものに変えていくかに取り組むという、内在的とも言える社会変革の態度を選択することでもある。

 

 

『すべてが汚染され腐敗している以上、われわれはつねに一からやり直すほかないのだという厳格な(かつ広く受け入れられている)立場と、善は種子のようなものとして存在しているのだから、われわれはもっと精力的にそれを育み、広く普及させなければならないという立場には、当然ながら意味深い違いがある。(p232)』

 

 

 この一文は、著者ソルニットの政治と人生への対し方をよく示していると思う。現実の生を真に豊かに生き抜くことこそ闘争の最重要課題だという、その考えは、たとえば有名な運動スローガン「パンと薔薇」(「すべての人びとに<パン>を、そして<薔薇>も」)についての次のような注釈にもよくあらわれている。

 

 

『パンは身体を養い、薔薇はさらに霊妙な何かを養う。心だけではなく、想像力、精神、五感、アイデンティティをだ。これは綺麗なスローガンだが、激しい主張でもある。生きていて身体的に満たされるだけでなく、それを超える何かが必要で、その何かを権利として断固要求しているのだ。(p105)』

 

 

こうした点で、特に印象深かったのは、著者のソルニットが若い頃、奇しくもオーウェルの代表作の題名と同じ1984年前後の自分の欲望のあり方を回顧・分析している箇所だ。当時の彼女は、上流階級の美的好みを模倣することで消費社会を席巻したラルフ・ローレンの、薔薇をはじめとするデザインのファッションに憧れていたという。

 

 

『(前略)でも一九八四年に現れた薔薇は、もろもろのくっきりとした連想を引き連れながら、ふんわりと漂ってきた。

 これらが単に薔薇や花や生地をめぐる問題ではなく、カントリー・ハウスや遺産や地位をめぐるものだと、あのころ、私たちはどのようにして知ったのだったか。時はアメリカ史におけるひとつの節目で、ある種の平等主義的理想や未来に対する信頼といったものがこぼれ落ちていき、ホワイトハウスにはレーガン家がいて、少数のための上流エリート主義をみずから実践しつつその他大勢のためのセーフティネットを解体していたのだった。(中略)

 薔薇柄の作品を欲するときに私が求めていたのは、製品よりもっと多くのもの、もっと別のものであり、私が欲しかったのは製品がまとう意味だったのだし、のちに製品が約束するものを嫌悪するようにもなった。(中略)それらは遠くから手招きし、みずからが属する場所について約束してくれた。(中略)だが楽園とは壁で囲われた庭園のことであり、部分的にはそれが締め出すものによって定義されているのだった。(中略)

 そうした製品が真に望む値打ちのあるものだったというよりは、私たちの欲望が剪定され、整枝、中耕された結果、ひまわりが太陽の方を向くようにその製品に差し向けられたのだ。その起源がでっち上げであるにせよ、欲望の強度は真正のものなのだ。(p206~208)』

 

 

こうした(現象学的とも呼べそうな)書き方には、レベッカ・ソルニットいう文筆家・思想家の魅力が、特によく示されているだろう。

この時代は、日本では新自由主義の本格的な到来はまだだったが、バブル直前にあたり、消費社会の雰囲気は、ここに描かれているものと共通したところがあったと思う。いずれにせよ、新保守化時代の幕明けと呼べる頃だった。その後の時代の流れは、ある点ではオーウェルの予想をはるかに超えるような深さと精密さで、欲望を含めた僕たちの生の経験の全体を内部から浸潤し支配していくものとなった。

ソルニットが、オーウェルから学び受け継ごうとするのは、もちろんその政治的支配への抵抗の態度である。『一九八四年』に書かれたビッグ・ブラザーのスローガンを引用しながらこう述べられる。

 

 

『「過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする」。残虐行為を可能にするのは、真実と言語に対する攻撃なのだ。(中略)戦争の最初の犠牲者は真実だ、という古い言いまわしがあるが、国内でも地球規模でもあらゆる権威主義を支えるのは、真実に対して仕掛けられる永久戦争だ。結局のところ権威主義とはそれ自体、優生学と同様に、権力は不平等に分配されるという考えに根ざした一種のエリート主義なのだ。(p174)』

 

 

嘘と欺瞞による権力の支配に抵抗して、奪われゆく生の経験の真実を固守し、生命の未来をあくまで信頼してそれを育んでいこうとする態度。そのことへの素朴な希望を失わなかったところにこそ、オーウェルの文学の力の核心があるのだと、著者は述べるのである。

47歳で結核のため亡くなった時、釣りが好きだった彼の病床の枕辺には、一本の釣り竿が立てかけられていたそうだ。

 

 

『その釣り竿は、彼が植えた樹木や薔薇のように、彼が養子に迎え入れた息子のように、そしてもしかしたら、病院のベッドからの結婚の船出のように、希望の身ぶりであるように見える。未来が確かなものだというのでなく、未来が手を伸ばすのに値するものだという、それは希望の身ぶりなのだ。(p316)』

 

 

結局、オーウェルが最後まで語り続け、守り続けたのは、生に対する信頼と希望だった。

ディストピア小説の見本のように言われる代表作『一九八四年』についても、主人公の生に関して著者は次のように論じている。

 

 

『彼は打ち砕かれた。彼はまず生きることをしおおせて、それらの勝利は消え去りつつあるのだけれど、勝利であるのは変わりない。つかのまのものでない勝利なんてあるだろうか。この本にはもうひとつの物語が含意されている。ウィンストン・スミスがいかなる規則も破らず、いかなるチャンスもとらえず、いかなる喜びも見出さず、愛を交わすこともない、そんな物語だ。その物語のなかでは拷問も監獄もない。というか、拷問や監獄があっても、党は彼をもっと効果的に支配する。彼が反逆したあとで単刀直入に彼を監禁して責め苛むのでなく、彼がそれを避けるために体制に従順に従うようにさせる、そういう物語である。(p311)』

 

 

現実の人生において、この「もうひとつの物語」の主人公になってはならないということこそが、著者レベッカ・ソルニットの、同時代を生きるわれわれへのメッセージの要諦だろう。