未だ羊を見ざりしなり

岩波文庫で『孟子』を読む。

孟子〈上〉 (岩波文庫)

孟子〈上〉 (岩波文庫)


はじめて読むが、『論語』とはずいぶん感じの違った書物である。
論語』と『孟子』の違いというのは、仁斎がうまくまとめていたが、自分なりに敷衍すると以下のようなことか。
論語』は古い時代のもので、この頃は人々の間に「人の道とは何か」というようなことについて、言葉にするまでもなく共同了解のようなものがあった。
だから、「人の道とは」という内容(理念)の説明ではなく、その実践(政治参加や学問・教育)の方法が説かれている。
また『論語』は、主に孔子が自分の弟子たちに向かって述べた言葉を集めて編集したものであるため、やはり「人の道とは」というような初歩的な説明は不要であり、相手に応じ、質問に応じての実践的な回答が書かれている本だといえる。
だから、その文体は、簡潔でぶっきらぼうに見え、同時に多義的な読みを可能にする。そこに大変な魅力がある。


一方、『孟子』はというと、この時代は、なにしろ始皇帝のファッショ・ネオリベ大改革の後ということもあり、人心は荒廃し世もすっかり乱れて(進歩して?)、みんな「人の道」(仁義)というようなことについて、それが何なのか体得的にまったく分からなくなってしまった(仁斎は、そんな風に言っている)。
そして、孟子が相手にして語っているのも、(これまで読んだところでは)君主といっても、「正義の戦い」と称して他国に攻め込んで占領しやりたい放題の非道をやって猛反発をくらっていたり、人民が飢餓や貧困に苦しんでいても自分だけは財を蓄えて贅沢三昧にふけっていたりする、トンデモな王たちばかりである。
こういう世情で、このような君主たち、人々を相手に、孟子は粘り強くも道を説き、世の中を少しでもよくしようとするわけだから、「人の道」(仁義)とは何かという基礎的なことについて、わざわざ言葉にして、しかもさまざまな回りくどい喩えを用いて、聴いた人が自分で気づいて体得しやすいような述べ方をせざるを得ないのである。
橋にも棒にもかからないような人相手に、道を説こうとする粘り強さ(よく言えば)は、孟子の真骨頂といってよいであろう。


さて、そのなかにこんな話が出てきた。
孟子が、ある王様に、「あなたには仁政を行うことが出来る」と自信を持たせようとする。そう思う理由は、この王様があるとき、祭儀のために殺されようとしている牛を見て憐れに思い、その命を助けてやったというエピソードを、自分は聞いたからだ、と言う。
だがこのとき、この王様は、牛の命を救ってやる代わりに、その身代わりとして羊を殺して祭儀に用いるようにも命じたのだった。
孟子はそれについて、罪もないのに殺されるのが憐れだというなら、牛と羊に何の違いがあるだろう、牛を憐れだと思う気持ちを羊にもおしひろげていけば、そのような気持ちの持ち方をするなら、きっと仁政を行えるし、それは必ず出来るはずだ、という意味のことを言うのである。


ここで王は、孟子の言葉を聞いて、自分は牛を見て憐れに思ったから命を助けたが、なぜ代わりに羊の命を奪う(身代わりにする)ように命じたか、それを憐れと思わなかったのか、まるで分からない、という風に答える。
このとき孟子が言った言葉の訳が、『牛を見て未(いま)だ羊を見ざりしなり』である。
この部分のみ、例によって現代語訳を写す。

牛を見て未(いま)だ羊を見ざりしなり。君子の禽獣に於けるや、その生けるを見ては、その死するを見るに忍びず。その声を聞きては、その肉を食うに忍びず。是の以(ゆえ)に君子は庖厨を遠ざくるなり。(巻第一より 岩波文庫 上巻p54)


訳によると、つまりそれはあなた(王)は牛を見たから憐れだと思ったが、羊は見なかったから、そう思わなかったのだ。目に見えるものに感じる憐れを、目に見えないものに対してまでおしひろげることこそ、仁の道である。
そのように孟子は説いた、とある。
そして、牛を見て憐れだと思ったのは、あなたには善(仁)の心がある証であり、だからあなたには仁政を行う素質があるはず(実は、人間には皆その素質があるはずだと孟子は考えてるのだが)なのに、「見えないもの」にまで憐れと思う気持ちをおしひろげようとしていないということは、(仁政を)「できない」のではなく、「やろうとしてない」ということだ。
こういう風に孟子は説き進めるのである。


実はこれは、動物は憐れだと思っても、悪政に苦しんでいる人民はほったらかしにしている王の反省をうながそうとするレトリックであり、「羊」とは人民の喩えのようである。
すると、牛に対する感情と、羊に対する感情とでは、同じ「憐れ」といっても、実は違いがあるようだ。重要なのは、見えないものを「憐れ」と思うことで、それをうながすためのレトリックとして、見えるものへの「憐れ」が引き合いに出されている節がある。
見えるものを憐れと思う自然的な感情があるから、見えないものをも憐れと思うところへ当然に拡張していけるはずだと、孟子は単純に考えているのではないかもしれない。


すごくややこしくなってきたので、これは置いておくとして、もともと書きたかったのは、次のことである。
それは、ここでいう「見える」「見えない」とは、どういうことか、ということだ。
というのは、「未だ羊を見ざりしなり」という言い回しがされているからである。
王様は、牛を見たから憐れと思ったが、羊は見なかったのでそう思わなかった。そのように読める。
だが、「未だ」とは、どういうことであろう?


こういうことではないだろうか。
王は、憐れという気持ちを感じたとき、実はそのことによって、はじめて牛を見たのである。羊が見えなかったのは、そこに羊がいなかったからではなく、羊は居ても居なくても、それを憐れとは思わなかったからである。
王に人民の(苦しみ)が見えていないはずはない。
あなたにはそれが見えないのではなく、見ようとしていないだけである。


孟子はおとなしい羊のように、王にそう語りかけていたのではないか。