『論語』と政治

伊藤仁斎の「論語古義」を再読しながら、『論語』をまた読み返す。
あの世に一冊持っていくとしたら、ぼくは今のところ『論語』である。


「ああ、こんな風に言ってたなあ」とか、「ここはこういう風にも読めるなあ」とか、「この文は以前は素晴らしいと思ったが、今になるとピンと来ないなあ」とか、色々思う。
「読むたびに発見がある」というのは、たしかにこの本にはピッタリあてはまる。


論語』に語られている思想で重要なことは、学問、制度的な政治、日常的な倫理の三つを、同じ線上に置いたことではないかと思う。
仁斎の思想は、この線を明確にしたという意味で、「日本独自の」ということではなく、儒教思想のもっとも正統的でラディカルな部分を継承しているものと言えよう(もちろん、「日本独自の」という意味では宣長以後につながる弊害もある。)。


文化大革命のとき、いわゆる造反派が孔子の思想を全面的に否定したこと、そのラディカルな部分を見られなかったことは、制度的な政治と日常生活上の倫理との連絡を断ち切ることで、「政治」というもののポテンシャルを抹殺する効果をもったと考えられ、これは1970年代以後の全世界的な保守反動化につながる性格をもつ動きだったのではないかと思う。