マイケル・ジャクソンの生と『論語』

先日、マイケル・ジャクソンが亡くなったが、マイケルというと、整形手術の話題がずっとされていて、一説には顔などの整形を50回以上もしたとも言われている。


「親からもらった身体を傷つけてはいけない」というのは、儒教の古い教えだともされていて、たとえば『論語』のなかにも次のような逸話が語られている。
孔子の弟子の曽子というひとが亡くなる時、門弟たちを集めて次のように言ったというのである。ここでは、あえて現代語訳を引用する。

夜着をのけてわたしの足を出しておくれ。わたしの手も出してそしてしっかり見ておくれ。


おずおずと、またおそるおそると
底知れぬ淵をのぞむように
ごく薄い氷の上をわたるように


この詩のことばのように、父母に生んでいただいた身体をたいせつにもちあつかってきたのだから。しかし、今日という日からもうこういう心づかいがいらなくなった。おまえたちよ、ほんとにそうではないかね。
(『論語貝塚茂樹訳注 中公文庫p214 第八 秦伯篇三より)


ここでは、「父母からもらった身体を傷つけてはならない」との思想が語られているといえるだろう。
これは、「身体の改変に対する自己決定」というような視点からすると、たしかに抑圧的に感じられるかもしれない。
だが、この話を一読して印象的なことは、自分の身体が、自分に属するのではないものとして捉えられているらしいことである。
父母に対する尊敬や感謝の気持ち(「孝」)の延長、あるいは表現のようにして、身体という「わたしならざるもの」の護持・尊重が語られているのである。


ところで、この箇所について、『論語古義』のなかで伊藤仁斎が書いていることも、ずっと気になっている。
やはり現代語訳を引くが、次のように言っているのである。

曽子の学説では、孝を主体として、忠信を本体とした。身体を大切にとりあつかって、決してそこなわないのは、孝・悌・忠・信の実際を肉体の上に実施して見せたのである。そもそも孝は親を愛するより大きいものはない。親を愛することを知ってはじめてその心を守ることができる。心を守ることができてはじめて、自分の身を愛することができる。父母の子供にたいするのは、幼いときには湯や火を浴びないようにとの心配がある。壮年となると、門によって帰宅を待ちわびる心配が出てくる。一日として子供の怪我を心配しない日はない。曽子はこの父母の心を自分の心とした。そこで死ぬまで、父母がのこしてくれたこの身体を大切にいだいて、謹んでこのように恐れる。曽子の学は、その最高の境地に到達し、何もこれに加える道徳はありえないことが十分分かるだろう。
(『日本の名著13 伊藤仁斎』責任編集貝塚茂樹 中央公論社 p190)


不思議な感じのする文章だが、こういうことではないかと思う。
重要なのは、4行目に「その心」と訳されている心、また終わりから4行目には「父母の心」とも呼ばれているものを、「自分の心」とするということである。
そのための糸口となるのが、「孝」という心のあり方、態度であり、「親を愛する」ということである。親を愛することによって、わたしは「その心」をはじめて獲得していくことができるのであり、その獲得の結果(あらわれ)が、自分の身体を「親が子供を愛するように」見る、扱う、という態度なのだろう。


すると、ひとつ分かることがある。
それは、ここでは「親を愛する」ということが、もともと自然な感情ではなく、ある種の困難さ、努力の必要性をもつこととされているらしい、ということである。
先に引いた曽子の言葉も、ここでの仁斎の言葉も、自然な感情ということではなく、むしろ自然なものからの切断を経て、いわば他者に対するように、「親」や「自分の身体」を愛することを命じているものに思える。


次のように言えるかと思う。
ここで「その心」とか「孝」(または「忠信」)という言葉によって述べられているような心のあり方は、関係から自然的に生じるものではなく、文化的・構築的なもの、つまり学習や実践によって習得されたり伝達されたり、もしくはそれが損なわれたりする、そうしたものとして捉えられている。
重視されているのは、自然的な関係から生じるような感情ではなく、実践による習得や伝達の対象となるような、このような「心」の獲得と維持なのである。


そうすると、最初の話題に戻るが、最も重要なことは、このような「心」を守るために、何がなされるか、ということだ。
いつでも、自然的な関係や身体、そのものに意味があるとは限らない。
マイケルのような人の場合、整形という手段をとらなければ、こうした「心」は守れなかったのかもしれない。
その特殊な事情については、もちろん知る由もない。
だがもしそうだったとしたら、彼の生き方は、『論語』に述べられているような思想と、必ずしも縁遠かったり、背反するものであるとは、言えないのではないか。


論語 (中公文庫)

論語 (中公文庫)