『ネオリベ現代生活批判序説』

しかし、重要なことは、人は一気にトナルを破壊することによって解体することなどできないということだ。トナルを縮小し、せばめ、清掃すること、しかも時をよく選んで、これを実行しなくてはならない。生きのびるため、ナグァルの攻撃をかわすためには、トナルを確保しなければならない。なぜなら、氾濫してトナルを破壊するナグァル、あらゆる地層を破壊する器官なき身体は、死より他に出口のない虚無の身体、純粋な自己破壊にたちまち転じてしまうかもしれないからだ。「トナルは是が非でも守らなくてはならぬ。」(G.ドゥルーズ/F.ガタリ千のプラトー宇野邦一他訳 河出書房新社 3版 p186)


ネオリベ現代生活批判序説

ネオリベ現代生活批判序説



本書の本論は、それぞれ、労働運動史の研究、ラカン精神分析を援用した臨床社会学、社会運動の実践、それにネオリベ的な大学改革への批判と抵抗にたずさわっている四人の人たちへのインタビューからなっているが、その前に「序」として、編者による二つの文章が置かれている。
そのひとつは、先日のエントリーでもふれた埼玉大学での非常勤講師の不当解雇という出来事についての記述であり、もうひとつはネオリベラリズムという言葉でしめされる現象の実体とその現状に関する文章である。
いずれも人文的な学問の専門家である編者たちは、「ネオリベ」的な政策と社会の動向のなかで進められている「大学改革」の「当事者」となったことから、こうした書物を緊急に編んで世に問うことになったのだろう。
それは当然、「ネオリベラリズム」を問うことであると同時に、人文的な「教養」がこの現実の社会においてもつアクチュアルな意味を自問する作業でもあったはずだ。
そのひとつの答えとして、巻末の「結」の部分では、

運動と教養はともに、ネオリベラリズムへの抵抗を構成しているのであり、この両者が重なり合う場が大学にほかならない。(p241)


という一文がおかれることになる。


ネオリベラリズム(新自由主義)とは何か」と題された文章における解説は、たいへん明快なものである。
そこでは、ハイエクフリードマンの思想・学説に代表される、この「市場原理主義」的なかんがえが、実際の政策に強い影響力をもち始めたのは1970年代に入ってからであり、この時期に起きた金融取引のグローバル化が、政策思想としてのネオリベラリズムの蔓延をもたらした大きな要因と考えられることが説明される。
さらにこの文章では、世界銀行IMFWTOなどの国際機関が担うネオリベラリズムグローバル化の役割が批判され、さらに日本における「ネオリベラリズム」の経緯や、国境を越えて多くの労働者がおかれている現状などについて手際よく整理されて述べられているが、一番印象的なのは、ネオリベラリズムによる統治が、生の否定を本質としており、「死の原理に基づく統治」にほかならないと断じられていることだ。

だが、繰り返すが、現実には、ネオリベラリズムの「小さな政府」は教育や医療などの公共部門を市場に委ねることで、軍事、警察、中央銀行、司法組織へと特化しつつその統治権力の強度を高めてゆく。そして、われわれの日常はその監視のもとで市場の論理にいっそう隷従していくことになる。全体主義の対極にあるようなネオリベラリズムの「自由化」政策を容認すればするほど、逆説的なことに、死の原理に基づく統治を呼び込み、われわれの未来はチリの軍事政権へと近づくのである。(p46)


そこから、「生の無条件の肯定」自体が、ネオリベラリズムに対する抵抗の原理となりうるという視点が導かれているといえるだろう。

ネオリベポストモダン

本論について。
労働運動史研究の入江公康氏が提起しているのは、雇用の「フレキシビリティ」を最優先する現在の労働市場においては、正社員と非正社員、また同じ立場の労働者同士が分断され、個々人が孤立化する「スト破りマインド」が醸成されるということであり、また孤立させられて「消費者」としてしか自己規定できなくなった労働者たちは、資本と対決し交渉する「敵対」の場と感覚をそぎ落とされているのだ、ということである。
これは、異質な他者との交渉の可能性を排除しようとする、ネオリベラリズムが持つ、ある種の非政治的な性格、「透明を欲望する」性格のあらわれであるとされる。

敵対という言葉を使いましたが、社会には敵対がここかしこに散布されています。生きているかぎり、敵対性をもって「敵」として自分の生を阻むものが立ち現われてくるはずですから、またそうであるからこそ他者や異質な者とのネゴシエーション(交渉)の可能性がとうぜん生じてきます。社会はそのような他者に取り巻かれた不透明なものでしょう。逆に、透明を欲望するネオリベ化した社会には、政治としてのネゴシエーションが出てきません。これは政治の領域がなくなるということです。(p93)


他者を排除し、敵対を忌避し、その意味で政治を嫌い、透明さを欲望する、それが「ネオリベラリズム」的な心性の特徴だとされているわけだが、この点は他の語り手たちにも共通する解釈のようだ。


ラカンを援用して現代社会を分析する樫村愛子氏は、それについてたいへん興味深い指摘をおこなっている。
そこで語られているのは、今日のグローバル化した社会では、個人は伝統や家族などの共同体に依存して自分を支えるということができないので、生きるために必要な「幻想」を確保するためにある種の宗教に頼る場合があるということだが、樫村氏が強調するのは、いまの人たちにとっては家庭が「外傷」の場になってしまっているため、
他者を忌避したいという心理が生じていること、現代のいくつかの宗教の特徴はこの他者を忌避しながら「退行的な共同性」を確保するという工夫がこらされていることにある、という点である。
それは、個人が個人であるままに、つまり教祖や他の信者のような他者の存在なしに、無意識での共同性を感じて安らぎをえる仕組みである。
興味深いのは、この「退行的な共同性」の幻想が、『60年代後半から70年代初頭のイデオロギー』に根を持っているという指摘である。

フランスのジャン=ピエー・ル・ゴフは、今日のネオリベ的な状況を「ポスト全体主義」と呼び、この状況は現在官僚や企業経営者となっているかつての六八年世代が作り出しているものだと言っています。彼らはある種のユートピア的な近代主義への幻想(透明性への憧れ、権威の解体)の上で現在の人間的条件を破壊しているんですね。自己啓発セミナーでも、「自己責任」、「自己実現」の主張そのものが、当時の退行的共同性の幻想に裏打ちされていました。(p136)


ネオリベ的な状況のひとつの現況を、他者のいない透明な社会を欲望する「六八年世代」の共同体幻想、あるいはそれに関連して生まれた「ポストモダン」の非政治的な思想に見出す視点は、他の語り手とも重なっていると思う。
『けっして保守的ではなく、リベラルにものが考えられて、寛容で、差別しない人』たちがネオリベ的な状況を支えているという認識は、社会運動家矢部史郎氏も語っている。
今日の大学改革を批判する岡山茂氏へのインタビューであげられているその具体的な例は、蓮實重彦町村信孝だが、このインタビューではそういうネオリベラルの改革の推進者たちが資本主義という「一神教的な宗教」に帰依しているとして批判されるとともに、現在の大学改革が「ポストモダンな大学」という彼らのイメージにもとづいて進められているのではないか、と指摘されている。


これはぼくの感想だが、ポストモダンを代表する思想書のひとつである『千のプラトー』を読んでも、「戦争機械」とか一見過激なことが書いてあるようだが、最終的には現状の資本主義のシステムを決して破壊せず維持しながら、そこから余計なものを除去して、そのなかで強度と速度を高めていく、という戦略が提示されている。
破壊と敵対の政治を否定して、資本主義のシステムのなかで「逃走」をつづけるというスタイルと、カスタネダの援用に示されているような透明な共同体への憧れの、奇妙な混交のようなものがそこにはあった。
日本の文脈でも、それがいま本格的に疑問を呈されるところに来ているということだろう。

生の表現とネオリベ的日常

ところで、矢部史郎という人の発言なり文章なりをちゃんと読むのは、じつははじめてだったが、たいへん刺激的だった。
ぼくには、「ああ同じように感じてるなあ」とか、「自分が感じてたのはこういうことだったのか」と思う反面、自分にはここまではとても踏み切れない、というところもあり、そこが刺激的だった。
あまりにも面白かったので、あまり書きたくないのだが、一点だけ書いておくと、ネオリベ批判の嚆矢とされるブルデューの『世界の悲惨』という本、これはネオリベ化した社会の周縁に押しやられた人たちの言葉を集めた本らしいんだけど、それを読んだときの衝撃についてである。

すごく同時代的な感覚を得て、自分たちが言葉を出していくことが、破壊的で生産的な力をもつんだという自身を得た。やんなきゃだめじゃないか、と。ぼくらが生きている場所からはいろんな証言が出てくるはずだけど、権力はそういう複数の証言をひとつに統合することによって成り立っている。とにかくそれを崩したかった。自分たちのような「世界の悲惨」的な階級こそ、表の新聞に書いてあるようなことは現実のほんの一部にすぎないと言い切れるし、自分たちのことをもっと発言するべきだと考えました。(p160)


こうした考えが、その運動観にもつながっているし、反戦デモで重要だったのは『東京にいるけど、見えないことになっていた人間たちが登場したこと』だという見方にもつながっていると思う。
見えないことになっている人間たち、聞こえないことになっている声が、姿をあらわすことによって、ネオリベ的な日常にひびを入れ、崩すことができる。
『やって無駄なことは何もなくなった』、『じつはいろんなことが可能になっていて、やれることはたくさんあって、むしろ自由になったと感じます。』という、彼の言葉は力強い。
矢部氏の言葉からうかがえるのは、「生の無条件の肯定」という態度、つまり、規範をふみこえるような表現や、軋轢をともなう露呈や、十分な開花をゆるされないような生の姿や欲望というものは、根源的にはどこにもない、とする姿勢であると思う。


ネオリベラリズムの日常を突き崩すためには、失業者や日雇い労働者のデモや占拠、落書きなどを含めた若者の自己表現など、ときには法や規範に反してでもおこなわれる、「見えないことにされている」人間たちや欲望の露呈と表出こそが重要だ。
これが、ぼくが本書から受け取ったもっとも強いメッセージである。


その場合、人文的な教養は、経済効率が「一神教」的に優先されるこの社会のなかでは、「清掃」されるべき「余計なもの」とされている、これらのものたちの存在に光を当て、その発現に力を与えるものとしてこそ、大きな歴史的意味をもつだろう。
他者の存在に支えられていることの、その自覚なくして、教養や大学が、再びその社会的な役割を回復することはありえないはずだ。