『歴史のなかの中国文化大革命』

新刊ではなく数年前に出版された本だが、示唆されることが多かったので紹介しておく。


歴史のなかの中国文化大革命 (岩波現代文庫)

歴史のなかの中国文化大革命 (岩波現代文庫)


著者の重要な論点は、文化大革命が、その後の中国の民主化運動の端緒になったということである。民衆自身が大規模な直接行動を起こして政権に直接働きかけていくというスタイル(天安門事件などに見られる)は、文革以前の中国では考えられないものだった、というわけだ。実際、トウ(漢字表記できないようなのでカタカナで)小平体制以後の中国の民主化運動を当初牽引したのは紅衛兵出身の人たちであり、彼らは89年の天安門事件でも影で大きな役割を果たしていた。
簡潔に言うなら、文革の評価についてのこうした著者の視点は、「民主化(運動)」と呼ばれるものが、その国・地域・社会に固有の歴史と論理をもっているのだということを教えてくれる。
最後の章における天安門事件の経緯の分析においても、運動の過程でこの固有な歴史的体験が軽視された(経験が世代を越えて継承されなかった)ことが、大きな流血を招く一因となったのではないか、という見方が示されている。


こうした著者の視点は、文革をたんなる権力闘争ではなく、社会主義の理念をめぐる争い、としてとらえることに基づいている。
著者によると、毛沢東(そもそも文革の主導者とも言える)は、49年の中華人民共和国の成立を、民衆自身が政権を直接掌握したものではなく、少数の幹部による代行的な権力掌握にすぎないと考えていた。
文化大革命は、革命の権力は少数の幹部(エリート)に独占されるべきでなく、民衆の手に完全に渡されるべきだという毛の理想にもとづいた動きであったと見ているわけである。


著者によれば、文革の運動のもっとも先鋭的・核心的な部分は、中国の社会を49年の建国以来支配してきた「出身血統主義」と呼ばれる共産党の階級イデオロギーや、そうした体制を維持するための密告と監視による管理システムの否定(廃棄)へと向かうものだった。
だがそれは、(後の四人組のような)文革を指導していた者たち自身を含め、ほぼ全ての中央の政治権力者にとって容認するわけにいかない行動であったため、やがて徹底的に弾圧されることになる。
文革の核心的な要素は、文革の政治的力学自体によって(も)圧殺されたのである。
本書の多くの部分は、その経緯の具体的な叙述にあてられていて、特に現在の日本の政治・社会状況と重ね合わせてみるときに、たいへん興味深いものがある。


一例をあげると、上に書いたような文革急進派に対してもっとも苛烈な弾圧を行った林彪の手法のひとつは、文革の担い手となった紅衛兵が属する知識階級や都市部の労働者などに対する、(国家に対する批判的な政治主張には無縁とされた)農民たちの階級的な反感を扇動し、攻撃させるという方策だった。これは、「農村によって都市を包囲する」という言葉で表現された。
そもそも文革急進派が標的とした密告・監視的な管理制度は、将来の出世が狙えるようなエリート層にとっては大きな障害と感じられるものだったが、政治とは無縁の場に置かれてきた大多数の農民には、むしろ自然なものとしか感じられていなかったという。

留意を要するのは超越的権威に対する信頼があるかぎり、民衆は必ずしも嫌々ながらこのような権力的基礎に従うものではなくむしろ積極的にこれに対応するということである。この権力的基礎が大衆「動員」に対して果たしてきた大きな威力を理解するには、これを単に民衆を抑圧するものとしてだけみる見方では不充分である。(p221)

以上のようなことも興味深いのだが、ここで考えたいのは別のことである。
文革で、最たる批判・攻撃の標的となったのは、よく知られているように、劉少奇トウ小平の二人である。当時、毛沢東らによって、この二人は「走資派」と呼ばれて非難された。
劉は文革中に失脚して世を去るが、トウは生き延びて権力を握り、文革派を一掃し、文革そのものを全否定する党の公式見解を示して、改革開放政策を遂行するに至る。
著者によれば、文革からの復権後、そのトウ小平が掲げた社会主義の理念は、「貧困は社会主義ではない」の一語に尽きるものだったという。それは、資本主義的な経済システムの導入や科学技術水準を高めることによって、まず生産力を向上させることを第一の目的とし、それに「計画経済を主とし、市場調節を従とする原則を正しく貫徹する」という条件を付する、というものだった。
つまり、一応条件(社会主義による制約)がつけられてはいるが、まず生産力をあげなげれば社会主義的な分配(貧困の撲滅)も不可能だから、市場経済を導入してそれを第一に追及していくのだ、という方針である。
これは基本的には、文革以前に劉・トウが主張した「生産力第一主義」という路線の延長上にあると考えられ、だからこそ市場経済の導入によって格差が拡大した今日、かつて劉・トウの路線を「走資派」と呼んで、それが社会の中に経済的な特権層を生み出すことを予言的に述べた毛沢東文革の言説が、一定のリアリティーをもって回顧されることにもなるのである。


だがここで興味を引かれるのは、この劉少奇らの「生産力第一主義」が、当時は資本主義どころか、マルクス主義の公式にもとづくものとして主張されていた、ということである。
つまり、毛沢東がここで「走資派」と呼んで批判・対立したものは、その後の歴史を見ればたしかに(特に今日の)「資本主義」と深く関わる何かではあったが、同時に社会主義経済の公式的な考えに基づくものでもあったということ、要するに、その両者に共通するある要素に、文革の理念は対決していたのだ、ということである。
それは何だったのか。


文革の理念(そして、それがもたらした混乱と悲劇)については、国家によって強制された平等主義、集団化という面が強調されがちである。いわば「全体主義的」な印象、と言ってもいいだろう。
だが著者は、毛の主張の核心が、「主観能動性」重視ということにあったことを強調する。
著者は、当時(60年代頃)の自身の文革への同時代的な認識を振り返って、こう書いている。

筆者の解釈を加えたうえで総じて言えば、生産手段の基本的要素を労働手段(機械・用具)と労働対象(土地)にみてこうした物的要素の所有制を社会主義的に改造すれば、それとともに、労働力(力能)の商品化も自動的に撤廃され、かくして生産関係の問題は解決するとする見方は、元来労働手段を使い労働対象に働きかける労働力(力能)の主体者である人間を副次的な位置におきその主導性を見落とす見方であったといってよい。むしろ事実は労働力(力能)の主体である人間の主導性によってこそ労働手段と労働対象をめぐる社会主義的改造は達成されたのではなかったか。それ故社会主義的改造後も当然この人間の主導性が重視されなければならず、当然所有関係以外の人間主体相互の関係が改革の対象として焦点に据えられることになってゆくのである。少なくともわたくしは文革期にこうした「主体性論」的解釈から大躍進や文革の積極面を評価しようとした。(p205)


たとえば「必要に応じた分配」のような方法を追求した文革時代の社会制度改革は、「コミューン主義」と呼ばれ、平等主義・集団化の国家による強引な実現という面に関心が集まりがちだが、そうした実践の根にあった理念は、平等を目指す階級闘争的・集団主義的なものというより、「主体能動性」(精神)重視の立場に立った社会的関係の変革(矛盾の解決)という志向にこそあると、著者(加々美)は見ていたというわけである。
ここからうかがえることは、中国の文革に限らず、60年代頃の社会と社会運動が目指した方向性の重要な面が「人間主体相互の関係」の改革にあったということであり、そのことにこそ、当時の世界の左翼の多くは関心を注いでいた、ということである。
そこには、制度や体制を変えるだけでは、不十分なものがあるということへの、強い自覚があったはずだ。
たとえば田中美津は、60年代のリブの運動にあった重要なものが75年以後の「国連婦人の10年」のなかで失われていったと語り、次のように回顧している。

それ以前の運動であるリブは、私が私を革命すること、変ること、社会が変わるということを一緒に考えて動いていこうとした。だからいつか法が改正されば女が幸せになるというふうには考えなかった。イヤなことにイヤといえた今日の私は昨日の私よりか素敵・・・というふうに私がなっていくことによって、社会も人間関係も少しずつ変っていく。社会なんて私たち一人一人の集合体だからね。そんなふうにリブは「私」から始まる変革を目指していた。(『かけがえのない、大したことのない私』インパクト出版会 p48)


かけがえのない、大したことのない私

かけがえのない、大したことのない私


無論、国家による一種の(そして苛烈な)強制として行われた文革期の政策と、リブの運動とは、まったく異質なものだろう。
だがここにはたしかに、制度や物質的な条件だけでは変えられないもの、しかしまたその変革と無縁ではありえず、むしろそういう物質的な変革を形骸化させないために本当に肝要なもの、目に見えない要素が人の生と大地の上にはあるのだという考えが、かすかに共有されて存在していたことの、手触りみたいなものがある。
おそらく世界の70年代は、その手触りを強制的に人々に忘却させようとする力と、それに抗おうとする力との、厳しい戦いの時代でもあったのだろう。
そしてやがて、そのことの記憶自体が、隠蔽され凍結され、封じ込まれてゆく。
その抑圧の上に、新しい(再帰的な?)時代の論理が、やがて作り上げられていった。


ところで、加々美光行は、今回紹介した本のはじめのところで、もうひとつ面白いことを書いている。
それは、トウ小平時代と江沢民時代(この本の出版は2001年である)の差異についてだ。
それによると、トウ小平時代には「資本主義要素」と「社会主義要素」が共存可能なものではあるが、その相互の関係性は「一方が発展すれば、その分、他方が衰退する」という「ゼロサム」的関係としてとらえられていた。
ところが、江沢民時代に入ると、この二つの要素の関係を「プラスサム」のものと見なす考えが力を持つようになる。

五十年後の未来までに、社会主義と資本主義はともに互いの長所を採り入れつつ、大幅な調整改革を経験し、その様相を一新させ、現在の社会主義、資本主義の範疇では到底測ることのできないまったく新しい社会システムを生み出すだろうと、于は述べた。この理解の下では、社会主義と資本主義はもはや「ゼロサム」ではなく「プラスサム」の融合関係として意識されていることが明らかだ。(p36〜37)


ここでは、資本主義(市場経済)の暴走に対する歯止めとしての「社会主義要素」が、もはや機能しなくなっているといえるだろう。


すると、ここで振り返って考えてみたくなるのは、この「歯止め」の必要性が重視されていた70年代の社会思想(とりわけ制度的な)は、それに先立つ時代の社会運動が持っていた変革の理念と、一義的に対立的(抑圧的)な関係にあったと見なしてよいのかどうか、ということである。
60年代の変革のなかで展望されていた理想と、その後、70年代や80年代の社会制度のなかに込められた考え方とは、どこかで距離の近い部分があったのかもしれない。少なくともその差異は、たとえばトウ小平の時代と江沢民の(そしてわれわれの)時代との差異ほどには、本質的なものではなかったのかもしれない。
文革を考え直すことは、われわれの固有な過去と現在、そして未来を問い直すことにもつながるようだ。