『父と子の思想』

父と子の思想―日本の近代を読み解く (ちくま新書)

父と子の思想―日本の近代を読み解く (ちくま新書)


半分ぐらいまで読んだけど、いまいちピンと来ない。


中野重治の『村の家』で、父親が主人公に言う台詞は、いま読むとぼくには『論語』や仁斎が言ってることの焼き直しみたいにしか思えないのだが、著者はこれを「現実の重み」という風に呼び、それを谷川雁の「下層の眼」という言葉に重ねる。

要するに転向問題が投げかけたほんとうの問題は、もはや転向か非転向か、社会科学か文学かをめぐっての知識人内部の定義や解釈などになるのではなく、むしろ日本近代の知識人たちが「知識人」として置かれたその逃れようのない状況と、そこに向けられた外部からの厳しいまなざし(「下層の眼」)にこそあるということである。(p099)


そして、この現実を「土着的」という言葉で呼ぶのだが、いったい、「下層の眼」と「土着的現実」というのは、同じものだろうか?
どうもこのへんが、もやもやしている。




ところで著者は、『村の家』の主人公と父親(日清戦争を体験している)の対決の場面を、60年代末期に全共闘運動に関わった自分と、日中戦争で過酷な体験をした父親との対決の思い出に重ね合わせている。
戦争という(国家に強いられたものでもある)巨大な暴力の体験をした「父」の世代から見れば、「転向」に帰結してしまう戦前の左翼運動や全共闘運動の「武装方針」など、息子たちの行動は「ごっこ」にしか見えなかっただろう、という風なことである。


それを読んで思ったのは、ぼくらの世代では、かつての左翼運動にあたるものは、「ひきこもり」や「ニート」ではないか、ということだ。
そして、ぼくらの父は、「企業戦士」という形で、一種「本物の戦争」を体験していたわけだから、彼らから見れば、「ひきこもり」や「ニート」が闘争であったとしても、それは現実の枠組みには届かない「ごっこ」にしか見えなかったであろう。


だが、「そのようにしか見えなかった」ということに、アドバンテージのようなものがあるわけではない。
「ひきこもり」や「ニート」が戦術的に甘い、ということであれば、たんに戦術を変えればよいだけではないか。


(読了したら、またあらためて書くつもりです。)