柄谷行人と社民主義


『日本精神分析』は、書名と同名の一文を除く三つの文章が、著者の立場からの社会変革の方策の具体的な提言ということになっている。
たとえば、「市民通貨」ということを、この著者がなぜ提唱したのかということも、今回この本を読んではじめて理解できた。
それらの論述に示された洞察は、ぼくにはたいへん面白い。
だが同時に印象的なのは、「議会制民主主義」にせよ、資本主義経済とそれを支える国家の体制にせよ、現行の社会制度のなかに入って変えていくという態度が、「社会民主主義」と名指されて、すべて否定的に扱われているという点である。

社会民主主義は、資本制=ネーション=ステートの三位一体的構造、つまり、「経済的に自由にふるまい、そのことが階級的対立や諸矛盾をもたらすとき、それを国民の相互扶助的な感情によって越え、議会を通して国家権力によって規制し富を再分配する」ということを端的に示しているだけです。この場合、社会民主主義と私が呼ぶものは、実際の政党の名称とは関係がありません。現在、先進国の政治状況をみると、名称がどうであれ、たんに社会民主主義の左派と右派があるだけです。(p58〜59)


つまり、著者の「社会民主主義」に対する否定とは、現行の社会制度に参入しながらそれを作り変えていこうとすることへの全面的な拒絶を意味するようにも思える。
この意味での「社民主義批判」というのは、何に起因するのだろうか。


著者は、貨幣について、また宗教やネーションについて、それらを「超越論的仮象」という言葉で呼んでいる。これは幻想なのだが、それなしには人が生きていけないような幻想であり、そのうえに経済や国民国家や宗教といった現行の制度(仕組み)が成立しているのだ、というのが著者の基本的な考えのようだ。
ところで、この「超越論的仮象」について、こう書かれている。

たとえば、私に翼があるという考えは、たんなる仮象です。しかるに、同一的な自己があるという考え――たとえば、昨日の私と今の私が同じ私であるという考え――は、超越論的仮象です。後者にかんしては、たとえ仮象だとしても、それをとりのぞくことができない。あえてとりのぞいたとしたら、人は分裂病統合失調症)になってしまうでしょう。(p44〜45)


「昨日の私と今の私が同じ私であるという考え」が幻想にすぎないということ、しかしそれなしには現実の社会のなかで人が生きていけない幻想だというのは、著者の「生」に根ざした認識であろう。この切実さを理解できない愚か者が、この著者の思想を「ポストモダン」などと揶揄してきたのだ。
だがしかし、この「幻想」は、貨幣や宗教やネーション(ナショナリズム)と、まったく同じ位相にあるといえるのだろうか?
著者の「社民主義」に対する否定、一種の拒絶、または忌避ともとれる態度をどう評価するかは、この点にかかっているような気がする。