さかもと未明「無力感を乗り越える力」を読んで

たとえば霧や
あらゆる階段の跫音のなかから、
遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
――これがすべての始まりである。


鮎川信夫 「死んだ男」第一連)


発売中の雑誌『正論』に載った、さかもと未明の「無力感を乗り越える力」という短いエッセーが、たいへん考えさせられる内容だったので、それについて書いてみたい。


このエッセーは、「ニート」と呼ばれる若者たちの集会に参加したという筆者が、彼らが強い無力感に苛まれていると感じて、『胸が痛くなった』という体験から語りはじめられる。
筆者は彼らの心情への共振と呼べるようなものを控え目に語った後、次のように書く。

ニートでなくとも、地方経済の衰弱によって失業や廃業に追い込まれている人が増えている。あるいは地震などの大規模災害に巻き込まれて、住む家や生活の基盤を失った人も少なくない。「自己責任」という言葉が一頃よく言われたが、自己の最善を尽くしても、どうにもならない現実を抱えている人はたしかにいる。自力ではどうにもできないという無力感は、甘えや怠惰とは違う。安倍首相は「人生再チャレンジ」を掲げたが、それすら難しい人たちがいるという現実は重い。国家がその出番であるにもかかわらず、出てきてくれないという思いを、少なからざる国民が感じているのではないか。(p42)


この後、筆者が8月15日に靖国神社に参拝したことが語られ、そこで次のような思いをもったと書かれる。

英霊となった方々は、一体どれほどの無力感に苛まれながら、それでも前向きに生き、死んでいったのだろう。そのことを思うと、いまの時代の「無力感」など、「たいしたことではない」と言わざるを得ない。(p43)

そして、こう続く。

廃墟の中から立ち上がり、奇跡の戦後復興を遂げた日本人のエネルギーはどこから湧いてきたのだろう。生き残った者の、死んでいった者に対する"黙契"だろうか。しかしいまや、達成されたはずの豊かさの中でニートが生まれ、もうこれ以上は頑張れないと年間三万人もの自殺者が出ている。見せかけの繁栄の中で、日本人はどんどん弱くなっているのかもしれない。(p43)(太字強調は引用者)


こうして、「無力感」を乗り越えるような力を国家が国民に与えていないのではないかという考えが語られ、敗戦後の昭和天皇の「ご巡幸」が人々に大きな勇気を与えたであろうことが想起され、(執筆当時まだ在任中だった)安倍首相が靖国に参拝すれば、それが国民にこうした力や勇気を与えることになるはずだと書かれる。
そして、こう結ばれている。

英霊に感謝を捧げることと、国民に勇気と励ましを与えることとは同じだと私は思う。続投をめざす安倍首相には、今こそ、黙して語れぬ人びとの声に耳を傾けてほしい。(p43)


この文章を一読したとき、率直に言って、心を打たれるものがあった。
たしかに、ここには靖国に祀られた戦争による死者を「英霊」と呼び、現在の社会の中で生み出される弱者や犠牲者と呼べる人たちを「黙して語れぬ人びと」と呼んで、それに重ねることで、苦しむ人々の感情を国家への同一化の方に誘導してしまう政治性があるだろう。
だが、それ以前のところで、若者たちの苦しみに共振し、また戦場で死んだ人たちの思いと、それを引き継いだ「生き残った者」との「黙契」を想像する筆者の視線は、等身大のものであり、そこにたしかにひとつの思想の現実的な力の源のようなものを感じる。
こういうところからしか、他者との「連帯」の可能性は開けていかないだろうと思える、その兆しのようなものが、ここにはあると思う。


その核心にあるものはなにか。
それは、他者との関係の現実性を喪失しているという実感、そこから来る「空虚さ」の痛みではないだろうか。
『黙して語れぬ人びとの声に耳を傾けてほしい』という言葉の底に流れているのも、その痛みだろうし、『生き残った者の、死んでいった者に対する"黙契"だろうか』という想像を筆者に強いたものも、そうしたものではないかと思う。
このような感覚との対峙からはじめること、それ以外に、「国家主義の復活」に代表されるような現代の悪しき傾向に対抗する道はないと思う。


ひとつ言えることは、『生き残った者の、死んでいった者に対する"黙契"』というモチーフは、戦後の復興を支えた人々だけにあったものではない、ということである。
日本人以外の、または海外の人々の体験のことを言っているのではない。
この「死者」に対する黙契と呼べる感情は、平和運動や「戦後民主主義」を支持し参加した多くの日本人に共有されたものだったはずである。
それは、「死者という他者」との関係という性格をもったがゆえに、ある種の強制力をもち、たしかにそれらの運動の重要な根底をなしたはずである。
だが同時に、それは「戦友」や「同胞」に限られた、ナショナルな性質を持っていたゆえに、それらの運動の限界を構成するものでもあった。


いま必要なことは、「英霊」や「同胞」と呼ばれるようなものでない、「他者としての死者」を見出し、この死者との関係(黙契)において、新たな社会性、共同性を作っていくというようなことだろう。それは、「死者」にとどまらず、「他者」との関係を基盤として作り出されるような、したがって閉じることが原理上不可能であるような質の「連帯」を結んでいくということである。
その「他者」という範疇には、戦争や災害や暴動など歴史のなかの無名の死者、犠牲者たち、外国人やさまざまな社会的マイノリティーのほか、死んでしまった者、生まれるべきはずであったのに生まれることのなかった者、そして未来の、未生の者たちも含まれるだろう。
その人たちを含み、その人たち(他者)との「黙契」によって形成される、ひとつの社会、公共性。
その現実化の努力によってだけ、「他者との関係の喪失」の痛みに苦しみ、飢える、現代の『黙して語れぬ人びと』を、「国家」とは異なる方向に向かわせることが出来るはずである。