足利事件

この事件のことは、今日のNHKクローズアップ現代」でとりあげられていたが、大変踏み込んだ取材がされていて感心した。


ところで、こうした冤罪事件について語ったり考えようとするとき、どうしても「本当は無実の人が、不当な苦しみを受けることになって気の毒だ」という言い方になりがちだが、少し違うだろう。
この事件の場合、きっとこの人は無実だろうと思うが、冤罪というものの本質は、そこにはない。
冤罪は、「本当は無実の人が、有罪にされる」ということが主たる問題ではなく、「無実かそうでないかよく分からないのに、有罪に決められてしまう」ということが問題なのだ。
だから、「本当は無実だったと思われる」この当人の「可哀想さ」にあまりにウェイトを置いた報道や議論は、冤罪を作り出す警察や司法の権力の罪を見えにくくしてしまう恐れがある。
問われるべきは、ひたすら警察や司法のあり方のシロクロなのだ。
その意味で、今回の高裁の決定は、記事にあるように、まったく不当なものだと思う。
http://mainichi.jp/select/today/news/20090623k0000e040046000c.html


もう一点、いわゆる「ウソの自白」と呼ばれるものについても、「クローズアップ現代」で詳しく語られていた。
過酷な取調べのなかで、身に覚えのないことであっても、被疑者が「やりました」と認めて「自白」してしまうことは、頻繁に起こるとの事。
これは、きっとそうだろうと思う。
これは、「自白」というものを、あまりにも偏重する傾向と結びついてるだろう。
そこには、自分がしていないこと、しかも自分が(有罪を認めるという形で)不利になる結果を招くような自白を、人間はするものではないはずだという、合理的な先入観のようなものがあると思う。
だが、人間の脳だか心だかは、追い込まれると、しばしばごく当たり前に、そのような自白をしてしまうという、非合理な一面を持つのだということを、認める必要があると思う。
そうでないと、圧迫されてひどく追い込まれた人の心理が理解されず、今回のようにひどく不利な判断を(司法や世間・マスコミによって)されてしまう。


そのことは、きのうの「集団自決」の番組を見ていても感じた。
自ら進んで死を選ぶとは、しかも肉親をあえて殺害するとは、普通の生活をしている者には理解しがたいだろう。だが、過酷な状況のなかで、国家や組織による強い権力によってそこに追い込まれれば、人は当然のように、そういう非合理な行動をとる。
人間の日常的な理性は、その意味ではまったく脆弱なもので、いつも権力の圧倒的な力にさらされている。
冤罪事件の被疑者にも、それと同様の心理状態が見られるといえるのだろう。


結局人間というものについて、そのような立ち入った見方がなされなければ、そうした状況に置かれた人間の行動は理解されず、その言明は結局信用されないことになる。
つまり、そういう弱い立場に置かれた人間のことは、いつまでたっても、本当には省みられない社会のままだ、ということになる。