『ハーヴェイ・ミルク』

九条のシネ・ヌーヴォにドキュメンタリーの『ハーヴェイ・ミルク』を見に行ったが、近くの座席に座ってたマスクをしてない男性客が、上映中ずっと咳き込んでて、むっちゃ不安。
マスクを持って行っといてよかった。
みんなマスクをしてるなんてどうかしてると批判的に思ってても、自分が被害を受けるかもと思うと、なかなか冷静ではいられないものですね。


さて映画だが、大きな特徴は、主人公のミルクだけでなく、殺害犯であるダン・ホワイトという人にもスポットを当てていることであろう。
ミルクが市長と共に暗殺された背景には、ゲイの権利を否定する法令が作られることに反対する闘争、そのなかでの国中を巻き込んだ議論というものがあった。
ミルクと共に闘った女性の言語学者は、当時を振り返って、「あの頃は二つの価値観が対立していたというより、二つの恐怖が対立していたのだ」と言っていた。ゲイや少数者の側は、保守派、(キリスト教)原理主義者によって自分たちが排除・圧殺されることを恐れ、保守派の人たちは、ゲイや少数者の台頭によって自分たちの生きてきた安定した秩序や世界が壊されることを恐れた。
それを聞いて、この二つの恐怖が対称ということはないが、どちらにも恐怖があるという構造は、その通りだろうなあ、と思った。


見ながら疑問に思ったのは、ホワイトは保守派、多数派の社会に属する人でありながら、なぜ殺害という極端な行動に走ったのか、ということである。
多数派としての安心感があるから少数者に暴力を振るえるのだ、という解釈も成り立つが、もっと隠微な暴力を加えるというか、自分が刑務所に入るような行動をしない方が、もっと多数派的であろう。
だがそうはせず、結局は自殺に結びつくような極端な行動をした。それは何なのか。


映画では、ホワイトが不安や動揺、孤立し迫害されてるような心理を抱いていたらしいことが示される。
それをホワイトは、ミルクや、ゲイの人たちの存在・行動に結び付けて考えていた、ということだろう。
しかし、この不安や動揺を、ホワイトのような人に植え付け、増幅し、孤立に追いやっている力がどんなものか、もっと直視できていれば、と思う。
それは、ミルクが闘おうとしたものと、そう違うものではなかったはずだ。


ミルクと市長を暗殺したホワイトの犯行は、全員が彼と同様の思想をもっていた陪審員たちによって裁かれたため、不当に軽い評決となった。
怒ったミルクの支持者たちは、デモを行い、議会や裁判所に詰め掛けて、暴動のような状況になる。
ミルクに近いある人物が言っていたように、この暴動を暴力と呼ぶなら、ミルクを殺害した暴力、またそれ以上に「多数者は少数者を殺しても重罰を受けない」というメッセージを社会に投げた陪審員と多数派社会の暴力こそ、より強く批判されねばならないだろう。
この怒りの表明は、まったく正当であり、必要なものでもあっただろうと思う*1


だが同時に、こういうことがいえる。
「二つの恐怖がある」というのと同じく、「二つの暴力がある」のであり、そしてこの二つの暴力は、同じ名を持っている以上、何かが共通しているはずである。
怒りや暴力の正当性という問題とは別に、この共通する唯一の「暴力」に抵抗する、否む権利という究極的な課題は残る。
もちろんその「権利」は、ひとり暴力を被る者に属するのだが。


ハーヴェイ・ミルク [コレクターズ・エディション] [DVD]

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*1:ミルク暗殺直後のキャンドル・デモの、静かな暴力への抗議は感動的である。