野宿者排除と反原発、そしてこの社会の禁忌と希望

8日に竪川で行われた江東区による行政代執行の、ひどい暴力の実情については、以下のサイトの報告を読んでもらいたい。

http://san-ya.at.webry.info/201202/article_14.html

http://blogs.yahoo.co.jp/tatearakansai2012/folder/319191.html


現地では、今後もさらなる行政側による暴力の行使が予想されている。
出来るだけ多くの人に、現場に足を運んだり、出来る行動をしてもらいたいと思う。
だがここでは、二つのことについてだけ書いておきたい。



ひとつは、野宿者の排除という事柄が、今の社会において持つ意味、とりわけ反原発運動との関連についてである。
あえてこのことを書くのは、今回の強制排除や行政代執行が、経済産業省の動きや、その庁舎の前にあるテント村をめぐる動向と関連して、同じ日時に行われているという印象があり、またそのことに関わって、野宿者排除に反対するこうした運動の孤立化と、反原発運動の分断、ないしは無力化(非政治化)が画策されていると思えるからである。
要するに、社会運動の全体を、体制にとって実害のない種類のもの、かえって国家権力を補完するような性質のものに変えていこうとする操作の一端を、そこに見ることが出来ると思う。


今回のような排除反対の行動を見て、過激だと思ったり、なぜそこまでこの事柄にこだわるのか分らないと感じる向きもあるかもしれない。
だが、社会的に言うなら、野宿する人や、日雇いなど底辺の労働者(外国人をも含む)たちが、行政や警察、企業によって虐げられ、さらには一般の人たちからも無視されたり排除されてきた歴史と現実が、この社会にはあるのであり、支援者の多くは、その現実に日々身近で接してきている。
今回の行政の横暴に対する怒りのなかには、そのことに対する怒りも含まれているはずで、それは「当事者を離れた支援者の勝手な怒りだ」とか「政治的だ」とかいう風には言い捨てられないものだと思う。
それは支援者個人の怒りや悲しみであるかもしれないが、「他者(被支援者)と共に生きること」を離れたものなのではない。
一言で言えば、それは人間の生存や尊厳を踏みにじるこの社会に対する、生身の人間としての怒りの表出だ、ということである。


そして、そのように社会から蔑ろにされ、排除された人たちを働かせることで成立してきたものが、まさしく原発であり、それに支えられたぼくらの社会の「豊かさ」であるわけだ。
実際、こうした人たちを使役する(非人道的な)労働がなければ、原発は動かせないだろうと、この問題に詳しい専門家も示唆している。

http://sp.mainichi.jp/m/news.html?cid=20120203k0000m040083000c


だとすると、人を蔑ろにし、排除し、死に追いやるような攻撃までする、この社会や権力の悪どさと、原発という存在とは、深いところで重なっていることになる。
原発を否定するとは、この悪どい社会の構造、社会の一隅で懸命に生きようとしている人たちを攻撃したり、利用したりすることで成立し安定するような「犠牲」の構造を、自覚し、そこから脱却するということ以外ではありえないはずだ。
実際そうなったとき、ぼくたちははじめて、原発というものの磁場の外に出て行動できるのだと思う。
その意味で、野宿者の排除に反対する行動は、反原発の行動と、決して縁遠いものではない。むしろそのつながりは、本質的なものを含んでいるのであり、だからこそ権力(体制)の側は、二つの運動を特に切り離そうとするのである。






書いておきたいことの二つ目は、上にも書いた、野宿者排除に抵抗する行動が、生身の人間としての感情のあらわれであるということに関わっており、それがぼくたちに訴えかけてくる暗黙のメッセージに関することである。


野宿してる人は、職を失ったり、家族や人間関係を失って、野宿者になる過程でも、自分の存在が否定されているように感じてきただろうと思う。
そして野宿生活をするようになって、周囲の人たちの視線や態度、行政の冷酷さや暴力、そして頻繁におきる「襲撃」などによって、自分の存在が攻撃されるか無視されるかしかないものであり、生存そのものが社会全体から否定されているような実感のなかで生きてるのではないか。
そういう人を、今回のような暴力的な追い出しが、決定的な追い打ちをかけるかのように襲っているのだ。
そのとき、その人の側に居て、寄り添い、自分と共に抗議の声をあげて、その人の生存を否定してくる巨大な力と、全力で体を張って闘う人たちの存在と行動は、その野宿してる人の生への最大限の肯定のメッセージとしてあるだろう。


その支援者たちの行為を、その野宿している人自身がどう感じるかは、ぼくには分らない。
誰にも本当のところは分らないかもしれない。
だがその行為は、間違いなく、野宿している人の生存を全力で肯定しようとする態度であり、それは存在の深いところで、当事者に何かを伝え、生きる支えとなっていることを、ぼくは信じる。
そして同時に、支援者たちのその姿は、何ごとかを、ぼくたちに訴えかけてもいる。


そういう、社会全体からの排除や攻撃にさらされ、あるいは無視されている人のために、その生存の危機に際して、その人と共に声を上げて闘う支援者たちの行為は、ぼくたちにとって重要な意味を持っている。
なぜなら、そうした行動や感情は、この社会では、まるで禁忌のようになっているからである。
この社会には、不当な権力や構造によって、生存の価値を否定され、現実に生存の危機に(精神的な理由からも)瀕している人が数多く居るのだが、ぼくたちの内部には、「その人と共に」苦しんだり悲しんだり怒ったりする、行動するということへの厳重なセーブがかかっているかのようなのだ。
そのことは多分、自分自身についての感情を表に出したり、行動することへの、ある種の抑止のかかり方と関係している。ぼくたちの多くは、感情のなかの「誰かと共に」という部分を見失っており、そのことが感情の真っ当な発露、真に怒るべき対象への怒りや、真に悲しむべき事柄への悲しみということを、出来なくさせているのだという気がする。


竪川の今回の状況を、遠くから見聞していて、感じるのはそうしたことである。
あそこで、生存や、生存の価値が否定されて、苦しんでいる誰かの側に居て、その人と共に、あるいはその人のために、怒り抗議し抵抗している人たちが示しているのは、人は誰かのために、全力で苦しんだり、怒ったりすることが出来るし、またそうあるべきだということなのだ。
そのことの大事さ、そのことこそがぼくたちがこの不当きわまりない社会の現実を突き破って生き延びていく道を拓くものだということを、それはぼくたちに告げてくれてるのだと思う。