『神を待ちのぞむ』

神を待ちのぞむ

神を待ちのぞむ



読み終えて思うことのひとつは、ヴェーユが「負債のエコノミー」とか「負債のイデオロギー」と呼べそうなものの外に立とうとしている、ということである*1


このことは、「「主の祈り」について」という文の中に出てくる。
「われらが人にゆるしたるごとく、われらの負目をゆるしたまえ」という祈りの言葉を注釈して語られる部分である。
ここでとても大事だと思うのは、他人(神)に負債(債権)の放棄を求めるには、それに先立って自分自身が負債を放棄していなければならない、という考えである。

この言葉を言うときには、すでにすべての負い目をゆるしていなければならない。(p212)


これが、ヴェーユの言う「自己放棄」だろう。
人は、他人に向かって、「負債のエコノミーから出て、対等な関係を作ろう」という風に簡単に言いがちだが、それにはそれに先立って、自分が債権を放棄していなくてはならない。

わたくしたちの債務者はすべての人、すべてのもの、宇宙全体である。わたくしたちはすべてのものに対して債権を持っていると信じている。わたくしたちが持っていると信ずるすべての債権は、いつも未来に関する過去からの想像上の債権である。これこそ放棄すべきものなのだ。(p213)


生まれてきたこの世界に対して債権を持っているという根深い感覚を、私自身が克服することによってのみ、「負債のエコノミー」の外での関係、社会性(ヴェーユの言う「正義」)が可能となる。
そういうことが言われてるのだと思う。


この「自己放棄」として成立する他人との関係性、倫理というものは、レヴィナスが『存在の彼方へ』で述べてたものと同じだろうか?
レヴィナスの「顔」に対して、ヴェーユは明らかに「神」を持ってきているので、そこは違うようにも思う。これはやはり、「負債」というものに対する、彼女の強い警戒を示しているのかもしれない。しかし、よく分からない。


最後に、編者のぺランは、何度か、著者の思想があまりに主観主義的であることを批判しているが、この批判は、「苦痛」に関してはあてはまっても、「不幸」に関してはあてはまらないのではないか、と思う。
ただ、彼の「序文」には、教えられるところが多い、と思った。

*1:「負債のイデオロギー」という言葉は、山極寿一著『暴力はどこからきたか』を読んでて知った。また、この「負債」というのは、柄谷行人が『世界共和国へ』で述べた、非常に広い意味の「交換」という語と重なるのではないかと思う。したがって、ヴェーユの批判が必ずしも「キリスト教」という限定された対象にのみ向けられたものではないことが、ここにうかがえるのではないかと思う。