気の遠くなるような暴力と不正義の積み重ね

イスラエルによる「一方的攻撃停止」と呼ばれるものの欺瞞性については、すでに解説が出されている。


「一方的戦闘行為停止」は「攻撃継続」に等しい
http://palestine-heiwa.org/news/200901180745.htm


イスラエルの「一方的攻撃停止」はまやかしだ
http://0000000000.net/p-navi/info/news/200901181513.htm


夕方のニュースを見たら、案の定、またイスラエル空爆を再開していた。その理由は、「ハマスがロケット攻撃をしたから」というのである。
そのロケット弾が着弾したらしいイスラエルの土地の映像がNHKで出てたが、畑に小さな穴が開いていた。もちろんというか、怪我人などは出なかったそうである。
http://www3.nhk.or.jp/news/t10013622141000.html


一方、このNHKのニュースでは、イスラエルの攻撃は「限定的と見られる」などと言っているが、イスラエル側によるターゲットを絞ったと称する空爆の破壊力がどんなものか、先日の「ハマス内相殺害」の現場のニュース映像を見た人には分かるだろう。まるで火星の表面にみられるような、巨大な穴が出来ていた。
http://mainichi.jp/select/world/news/20090116k0000e030017000c.html

強力な爆弾が使用されたとみられ、現場には巨大なクレーターが残された。ロイター通信によると、同氏と息子、兄弟らのほか、隣家の住民4人の計10人が死亡した。


あれだけの規模の攻撃を受けて死んだ「隣家の住民」の被害を、どうすれば「巻き添え」などという言葉で呼べるのか?
隣家の人間が一緒に吹き飛ばされない方が奇跡じゃないか。
イスラエルの「限定的な」攻撃というのは、こういうものである。
これだけを比較しても、双方の軍事力の圧倒的な差は明白であり、イスラエルが「自衛のため」と称して行っている今回の大量虐殺の正当化の論理が、いかに嘘を積み重ねたものであるかが分かるだろう。


もっとも国連施設への攻撃や住民たちが避難している学校への砲撃(40人以上の死者を出した)に見られるように、もともと一般住民を攻撃目標にしないという意図は、この軍事作戦にはまったく込められていないであろう。
要するに、人々と地域に最大の破壊と恐怖を与え、一刻も早く、ガザから全てのパレスチナ人を追い出したいという、なかば強迫的、なかば計画的でもある意思にもとづいた軍事行動であろう。


話がそれたが、「一方的攻撃停止」ということだ。
侵攻したイスラエル軍は、現地に駐留したまま、弾を使うのがもったいないからか、多少は国際世論に配慮したのか、いつまでも戦果をあげられないために国内世論を気にしたのか、いずれにせよ一時的に攻撃を休むと勝手に宣言したのである。
一方的に、1300人以上の占領下の人間を、圧倒的な戦力で殺しまくっておいて、殺し疲れたからひと休みするというのだ。
そして、少しでも逆らう素振りがあれば、また攻撃と虐殺を再開するという。


追放と占領と経済封鎖によって、半世紀以上もパレスチナの人々の全てを奪いし尽くした軍隊の支配に抵抗して、手製のロケット砲を畑に打ち込むことが、さらなる大量虐殺を正当化するための口実として、世界中に宣伝されるというわけであろう。
いま起きていることの構図は、こうしたものである。






だが、ここではっきり書いておかねばならないが、この構図は、占領や経済封鎖にまつわる事態の暴力性と不正義を、またそれが容認されることを可能にしてきた国際政治の構造を不問にするのであれば、イスラエルの言い分の方を「真っ当なもの」とする理解におさまってしまうだろう。
つまり現実に、「先に攻撃している」のは、ハマスという「イスラム原理主義組織」の側なのであり、その存在と行動さえなければ、そもそもガザの一般市民の犠牲が生じることもないであろう、という言い分が説得力を持つ、ということである。


『たしかに、イスラエルハマスとの力の非対称は明らかである。
イスラエルの自衛的行動は、「度を越している」かにみえる。
だが、この(痛ましくさえある)逸脱的な暴力も、そもそも市民社会の論理の外側にある勢力からの、理性を欠いた、理解しがたい暴力による挑発さえなければ、行使されることはなかったであろう。
つまり根本的には、ハマスの、またパレスチナ側の、自制心のなさが、この甚大な暴力の原因なのだ。』
このような理解が、大勢を占めていくことになるだろう。


このような理解は、明らかに常軌を逸している。
だがこのような理解が、現実を否認した、常軌を逸した欺瞞的なものであることを認めるためには、つまりイスラエルによる1300人を越えるガザの人々への虐殺が弁護の余地のない大量虐殺であり人道的犯罪であると認めるためには、追放や占領にまつわる事柄の暴力性と不正義、それを許してきたわれわれの国際社会の構造の暴力性を、問題にしなければならない。
それなくして、この虐殺の非人道性を認めることは、(信じたくないことであるが)困難なのだ。とりわけ、この日本においては。


たとえば、他の問題ではしばしば「左派・リベラル派」に受けの良さそうなことを言う佐藤優のような人が、この問題に限っては頑なにイスラエルの政策の擁護を行うことは、ある意味で正確な情勢の理解に基づいている。
佐藤優イスラエル擁護に嫌悪感を抱かないリベラル・左派の気持ち悪さ
http://watashinim.exblog.jp/9193135/


佐藤のエピゴーネンのような右派の評論家のなかには、中東情勢をめぐって日本の権益を守ることを主張し、またイスラエルの国策にも一定の理解を示しながら、今回のようなイスラエルの「行き過ぎ」だけを非難することで、リベラル的な意見を持つ人からも支持を取り付けようとする者もある。
だが佐藤は、あくまでイスラエルを擁護する立場に立つ。
それは、イスラエルの論理を擁護するか否かが、日本の保守派にとって、ほとんど生命線であるということを、佐藤は知っているからだ。
もし、占領や追放や経済制裁(封鎖)といったイスラエルの政策の全てを基本的に支持できないのなら、「日米同盟」も「改憲」も「米軍基地」も、その正当性を失う。
周辺地域からの孤立のなかでアメリカとの同盟関係だけを強化するという、日本の保守の(それ自体自己欺瞞的な)基本姿勢が、保てなくなるということを、佐藤は知っているのである。


逆に言えば、イスラエルによる(とくに)占領の問題を問うことなく、現在の暴力(侵攻)の「行き過ぎ」だけを非難することは、「イスラエルによる暴力」の基本的な容認に帰結することで、日本の保守派の論理に自ら迎合していくことを意味するだろう。
それは、(自分たち自身をも支えている)根本的な暴力の構造をあえて見ないという態度の選択になるからである。
その道がどこにつながっているかを、まさに今われわれはイスラエルとガザからの報道のなかに見ているのである。


イスラエルとは、まさに日本なのであり、イスラエルがいまガザでやっていることは、改憲後の日本がアジア(等)で行うであろうことである。