『全体性と無限』・暴力の二つ(?)の意味

全体性と無限〈下〉 (岩波文庫)

全体性と無限〈下〉 (岩波文庫)


この岩波文庫版では下巻に入っている第三部「顔と外部性」のなかで、とくに気になったのは、暴力や戦争について書かれているくだりである。


レヴィナスは、暴力という言葉を、二種類の意味で使っているのではないかと思う。
レヴィナスは、人間(顔)に対する暴力を、生物の根絶や物の破壊といった「労働」(世界内での営み)から厳密に区別する。暴力には、なにかそれ以上のものが含まれているというのだ。ここでは、これにならって、「暴力」という言葉を人間に対する行為に限定したものとして考えよう。
さてそこで、殺人や戦争といった暴力について、レヴィナスは、それを「労働」との対比において、ある意味で肯定している。つまり、それらの暴力は超越(他者との倫理的な関係)を前提してはじめて可能となるものだ、というのである。

私が殺すことを欲しうるのは、ただ絶対的に独立した存在だけである。つまり、私のさまざまな権能を無限に踏み越え、しかもそのことによって私の権能に対立するのではなく、なにかをなしうることの権能そのものを麻痺させる存在だけなのである。<他者>は、私が殺すことを欲しうるただひとつの存在なのだ。(p40)

顔はたしかに闘争によって脅かしうるけれども、闘争が生じるためにはすでに表出という超越が前提されている。(中略)戦争は平和を前提し、<他者>がアレルギーをおこさずにあらかじめ現前していることを前提している。戦争によって、出会いという最初のできごとがしるしづけられることはないのである。(p42〜43)


この「前提している」という言葉は、分かりにくい。
結局、思いつく解釈は、「戦争や殺人など何ほどのものでもない」ということではないかと思う。
レヴィナスは、たしかに「汝殺すなかれ」という命令を強調しているので、このことは異様に思える。だがレヴィナスは、普遍的な理念としての「人命の尊重」というようなことを、もっとも重要なことと考えているわけではないと思う。
彼はむしろ、殺人や戦争を含む暴力の意味に注目する。

戦争は、敵対する者が超越していることを前提している。戦争が遂行されるのは人間に対してなのだ。(p96)

一箇の全体性をかたちづくる――言い換えればそれを再構成する――諸存在のあいだでは、暴力は不可能である。それでは他方、暴力は分離された存在のあいだでなら可能となるのだろうか。分離された諸存在は、たとえ暴力的なそれであれ、どのようにして関係をとりむすぶことができるのであろうか。ちなみに、戦争による全体性の拒否は、関係の拒絶ではない。戦争においては敵対者たちがたがいにもとめあうからである。(p97)


全体性こそが、レヴィナスにとってもっとも悪しきものであって、戦争や暴力は、その全体性を拒否するものである。逆に言えば、全体性の構造のなかでは、暴力は生じえない。
暴力は、分離された存在同士が真に関係を結ぶための、ひとつの方途であることは確かなのだ。
戦争や殺人において、この方途が、自他の死を帰結してしまう場合はもちろんある。だが、そのことは、この方途(暴力)が、人間同士の関係において真実のものでありうることを否定するわけではない。


いや、というよりも、そのような関係の次元がすでに存在しているからこそ、レヴィナスがいう意味での「暴力」は可能になっているのである。
いわば全体性の構造の次元においてとらえられた暴力の現象は、彼にとっては「何ほどのものでもなく」、根底に存在している倫理的な関係の次元において捉えられた暴力の意味こそ重要だ、ということなのだろう。
また、こうも言われている。

だが、一箇の全体性のうちに統合可能な諸存在によって暴力が排除されたとしても、そのこと自体は平和と等価ではない。全体性のうちに、平和が含意している諸存在の多様性が吸収されてしまうからである。戦争を遂行することが可能な諸存在のみが、平和へと高まることができる。平和と同じように、戦争もまた、全体性をかたちづくる部分とはべつの構造が与えられた諸存在を前提しているのである。(p95)


この「戦争を遂行することが可能な諸存在のみが、平和へと高まることができる」という言い方は、たいへんレヴィナスらしい。
この本で言われてることのなかで、印象深いことのひとつは、「反省することが出来るのは、自由だけだ」ということである。
つまり、自由な存在だけが、倫理的な存在に「変容」する可能性を持つ。
この意味で、自身書いているように、彼はラディカルな自由主義にたいへん近いところにいる、と言えるだろう。
それはともかく、ここでも戦争をなしうるような「分離」した存在のみが、「平和」を実現することが出来る、と言われている。言い換えれば、そのようなものとして(そのような次元において)実現された状態しか、「平和」と呼ばれるに値しない、ということなのだ。
レヴィナスの思想が倫理主義だといっても、いわゆる「反戦」(平和主義)や「人命の尊重」と、ただちに結びつくようなものではないことが分かるだろう。
いや、結びつくにしても、ここにはそれ以上のもの、余剰がある。


レヴィナスは、戦争や殺人という、彼の言う「暴力」が、超越を前提しているとか、平和を前提している、というふうに言う。
だがそうすると、『語りにおける平和的な対立』(p36)が要請されるのは、なぜなのだろう?
戦争がおきていようが、虐殺の最中であろうが、根底的な次元においてはすでに平和は(前提として)存在している。それならなぜ、「語り」によって切り拓かれる関係が、あえて平和的である必要があるのか。
おそらくここでは、「平和」という言葉は、まったくぼくたちの知らないような意味合いを持っているのだと思う。
それは、あらゆる現象的な暴力の危険を隠蔽しないようなものとして、実践が目指されているものではないだろうか。
ともかく、ここで「平和的」という言葉によって排除が目指されているような「暴力」、それがレヴィナスが使っているこの語の、二番目の意味ではないかと思う。