ヴェーユと「イスラエル」

神を待ちのぞむ

神を待ちのぞむ


この本全体のなかでいうと、とくに大きな論点というわけではないが、前から気になってることなのでメモしておく。


重力と恩寵』を読んだときから気になっていたのは、ヴェーユが「イスラエル」と呼ぶものに対する、彼女の敵意の激しさである。
それが何のことなのかは、後で書くと思うが、あの本を読んだときには、それはキリスト教の神父であるあの本の編集者ティボンが、ユダヤ人であるヴェーユの非ユダヤ教的な面を強調するために、そういう箇所を抜き出したのだろうぐらいに思ってたが、そういうことではないようだ。
この件について、『神を待ちのぞむ』の「序文」のなかで、やはりカトリックの神父であるぺランという人は、次のように書いている。

繰り返して言う、シモーヌユダヤに対する敵意が現在広まっている反ユダヤ主義や、あるユダヤ人たちが自分の民族を忘れさせようとしている同化の精神と、何かのつながりがあると考えるのは完全な誤りであろう。(p266)


これは大変大事な指摘だろう。
ところで、この『神を待ちのぞむ』のなかでは、この「敵意」は、「ノアの三人の息子と地中海文明史」という短い文章のなかに示されている。
これが、フロイトの『モーゼと一神教』を思わせる面白い論文なのだが、ここで問題になっているのは、旧約聖書のなかで最も古代的な魂を体現していたと思われるノアの行為(行状)に対する、その三人の息子たちの態度である。

ノアはぶどう酒に酔って、幕屋の中にはだかでいた。(p221)


これについて、三人の息子たちが示した対応への通常の解釈は、ぺランによれば、父の裸を笑って一緒に笑おうと兄弟を呼んだハムの態度が非難され、尊敬の念を抱いてその父に衣服を着せた残りの二人、ヤペテセムの態度が賞賛されるものだという。
ところが、ヴェーユは、それをまったく逆転させる。
ぶどう酒に酔って裸になるというノアの行為に、ギリシャなどの古代世界の精神とキリストの現存とを結ぶ、普遍的な魂の価値、純粋性の現われを見るヴェーユは、ハムの行為を、その父のあり方と精神を肯定し継承するものとして称え、一方、『自分たちが酔うことと、はだかになることを拒んだ息子たち』(p229)の態度を、人類の精神的堕落(「根こぎ」)の源として厳しく断罪するのである。


この「根こぎ」は、キリスト教そのものとヨーロッパを堕落させ、植民地支配と帝国主義の拡大を通じて、世界全体を堕落させるものであった。

けれども、キリストが燃える怒りを投げつけたのは、偶像崇拝に対してではなくて、ユダヤの宗教的国家的な復興のために熱心に活動したパリサイ人であり、彼らはギリシャ精神の敵だった。「あなたがたは知識の鍵を奪った」(ルカ福音書)人はこの非難の及ぶ範囲を理解しているのだろうか。(p229)


ここを読んだときに思ったが、ヴェーユがこれらの文章を書いた30年代から40年代初めには、すでにシオニズム運動は大きな隆盛を迎えていて、パレスチナの土地には、多くのユダヤ人が入植していたはずである。
ヴェーユも、ぺランも、そのことに触れていないのだが、ヴェーユはやはり、この運動に強い警戒心か反感を持っていた、ということではないだろうか?


さらに、ノアの二人の息子がもたらした、「酔ってはだかになる」ことの忌避から始まった決定的な堕落について、彼女はこう書いている。

しかし今日ではヤペテの子らやセムの子らの方がずっと大きな騒ぎをしている。一方は権力を持ち、他方は迫害を受け、恐ろしい憎悪に切りはなされながら、兄弟であり、よく似ている。彼らは裸を拒むこと、着物をほしがることでよく似ている。その着物は肉で、またとくに集団の熱でできていて、各人の中の病を光から守るものだ。(p230)


ここに、ファシズムと戦い、同時に(キリスト教会を含めて)「集団的な感情」への警戒と批判をやめなかったヴェーユが、ナチズムやヨーロッパの反ユダヤ主義と、それに迫害されるユダヤ集団主義的な狂熱、とくにシオニズムとの同型性を見ていたことが示されているという解釈は、行き過ぎだろうか?