『全体性と無限』・住まい

全体性と無限 (上) (岩波文庫)

全体性と無限 (上) (岩波文庫)


第2部のDは、「住まい」という題になっている。


「住まい」ということは、ここでは「家」という語によって語られたり、「身体」という語によって語られたりするが、いずれも私がこの世界の内に存在するあり方としての「住まう」ことを意味するものとして重なってるのだろうと思う。
言われていることのポイントは、この住まうことの両義性である。
私は、住まいの場を持つことによって、レヴィナスが「始原的なもの」と呼ぶ、この世界の存在の暴力性のようなものから守られ、この世界のなかに存在して生きていくことが可能になる。けれども、それは一方では、「始原的なもの」を私から根こぎにしてしまうことでもある。
つまり私は、「住みか」を持つことによって、世界(の暴力性)から守られると同時に、この世界の存在から、一種引き剥がされる、ということなのだ。
レヴィナスは、このような言葉を使っていないけれども、だいたいそういうことではないかと思う。


「住みか」を持つことによって可能になる私の世界内存在の在り方とは、「労働」と「所有」という語にまとめられるようなことである*1
そこでは、自足した「享受」において感じられるはずの「始原的なもの」としての存在(私にとってのこの世界)の、不確定性からくる不安さのようなものは消し去られている。レヴィナスは、この(存在の)不確定性を、「統御不能な未来」というふうに言っているが、この不安の種のようなものを存在(この世界)が孕んでいるという感覚は、ある仕方で抑圧・隠蔽され、世界のなかの諸存在はレヴィナスが「もの」と呼ぶ道具的な存在物へと変容しているのである。


そうすることによって、私はこの世界のなかに存在することが可能になる。
この、私がこの世界のなかに存在して生きていくための形態、いや、現に生きているあり方が、「住まう」ということである。
だが、上に述べたように、これは私が、それによって自分の生を支えているものでもあるはずの世界の存在から、私自身を根こぎにしてしまうようなあり方でもある。
とはいえ、レヴィナスはそのことを、否定的に捉えているわけではないのである。
ここは、非常に面白いところなので、少し詳しく書いておく。
レヴィナスは、こんなふうに書いている。

家は「通りに面している」一方で、秘密もまた隠している。住まいから出発して、分離された存在は自然的な生存と手を切る。(中略)家、あるいはかたすみ、天幕、洞窟こそが、分離された存在が内部へと向かう入り口である。(p315)


つまり、「住みか」を持つことは、私が周囲の世界(存在)から隔離されて切り離され、存在の領域のなかで根こそぎにされる事態であるが、そのことが私の内部への通路を開く。問題は、この通路が、どういうものにつながっているか、ということであろう。
この箇所を読んでいて、ぼくは以前読んだ、次の文章を思い出した。

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080626/p1

中庭は円形で、とても小さな家々に囲まれており、家の窓は、壁の密閉性の背後にある不可視性を強調するばかりだった。なぜか分からないが、私はそれを、非常に異なる複数の街で見たことがある。例えばカイロの旧コプト人街、プラハカフカが住んでいた通り、抑圧された少数民族が、常に異常なまでに小さな家とともに、その奥に身を隠していた街々だ。見窄らしくとても地面に近い。あたかも建物が人間たちからあらゆる滞在の外観を奪っているかのように、あたかも人間たちが既に、消失し消滅しつつあるかのように。隠遁の場所ではない。外部を路上に投げ出した場所だ。内部への逃亡の諸形象である。(サファー・ファティ「すべての前線で回す」より 『言葉を撮る』p216)


おそらくレヴィナスが言っている「分離」というのは、ある意味では、「離散」のことでもある。
周囲から自分を引き離し、隔離して隠遁するかのようにし、自分を「自然的な生存」から根こぎにして生きることは、内部への通路を開くことでもあるが、レヴィナスにおいてはそのことの意味は、他者との遭遇の条件を設える、ということなのだ。

家をえらぶとは、根をもつとはまったく正反対のことである。家によって示されるのはむしろ離脱であり、家を可能とした漂泊である。漂泊は定住よりも劣るものではなく、<他者>との関係という剰余、形而上学という剰余なのである。(p354〜355)


分離(離散)とは、自然的な生存から切り離されてあることにより、他者を受け容れるための、他者に開かれるための条件を確立することでもある。
これはもちろん、現実の家屋に限った話ではない。
たとえば、人間は抽象的な思考能力をもつことにより、「自然的な生存」から根こぎにされているともいえるが、そうしたあり方を人間がすること、つまり思考能力を人間が持つことの意味は、結局は他者の受け入れという倫理的な要請のうちにこそ見出される。
倫理が、(たとえば)思考を根底的に意味づけるのである。


このようなレヴィナスの、おそらくユダヤ的ともいえる考え方は、たしかに人間主義的な傾向を色濃く帯びているともいえよう。
人間が、ある意味で自然から切り離されてあること、その営み(世界内存在)は、倫理の名において肯定されているからである。

けれども、顔の超越は、世界の外部で作動するのではない。(中略)どのような人間的あるいは間人間的関係もであっても、エコノミーの外部で作動することはできないし、手になにも持たず家を閉ざしていれば、どのような顔にも出会うことができない。(p354)


そして、彼の考える他者も、やはりあくまで「人間的なるもの」ということになるのだろうと思う。


ところで、また同じようなことの繰り返しになるが、このように分離された存在である私は、その分離というのはあくまで周囲の「自然的な生存」からの分離のことであるとはいえ、それでもいかにして「他者」と出会うことが可能であるのだろう。
このあたりのことは、ここまで読んできても、やはりぼくにはよく理解できない。
ただ、次のように書かれている。

分離はたんに、そのうらがえしとしての超越に対して、弁証法的な様式で相関しているものではない。分離は、ある積極的な出来事として達成されるものである。他方、無限なものとの関係は、住まいのうちで集約されている存在にぞくする、もうひとつの可能性でありつづけている。(p355)

家(住みか)を持つこと(「分離」)は、他者への開けという倫理的な要請をその本質としてもつとはいえ、そのことがただちに他者への開け(「無限なものとの関係」)を可能にするわけではない。二つのことは、根本的に別次元のことである。
このことのために、「分離」(家を持つこと)が、他者への開けとは正反対の、他者の排除という行為を生み出すという現実も生じる。


レヴィナスの「他者の迎え入れ」に関する議論は、ぼくにはたいへん難しいものである。「女性的なもの」や「教え」「師」という有名な概念も、このくだりで出てくる。
ただそれは、「ことば」に深く関わっているということ、そして「家」において迎え入れられ、享受と所有から解放されるのは、じつは他者(客)ではなく、私の方であると考えられているらしいことだけを、メモしておく。

*1:たとえばレヴィナスは、『住みかをもたない存在には、だからそもそも労働することが不可能であることになるだろう。』(p322)と書いている。