「生きる歓び」再読

フロイトは、動物愛護の運動をしている人の多くは、子どものときに動物虐待をした経験があり、それに対する代償として活動をしているのだ、と言ったことがある。
これは、こうした運動など正体はそんなものだというシニカルな意味でいったのではなく、一見観念的で理想主義的にしか見えない行動でも、それなりのフィジカルな根拠があるから馬鹿にできない、という肯定的な意味だったと思う。
ぼくは、こういうフロイトのものの見方が好きだが、でもそれは行動に、あるいは「善」になんらかの根拠をみようとするタイプの考え方だ。
保坂和志の「善」に対する考え方は、それとはかなり違うものだと思う。


7月11日、12日にエントリーを書いた短編「生きる歓び」のことを思い出してるのだが、ぼくはやっぱりこの小説がすごく気になるんだけど、あそこでは主人公は墓地で拾った体の虚弱な子猫の介抱を自分の時間を犠牲にして一生懸命やるなかで、生についての感じ方が大きく変わっていく様子が書かれていた。
当初は食べ物を受けつけようとせず眠り続ける猫の姿をみて、『私はこのまま生きられずに死んでゆくのだとしても、それはそれでいいことなのかもしれないと思った』とか、『だいたい生きるというのはそんなにいいことなのだろうかと私は思った。それは無条件でいいと断定できるのだろうか。』という感想をもらしていた主人公が、子猫の回復とともに、『「生命」にとっては「生きる」ことはそのまま「歓び」であり「善」なのだ』と実感するまでになる、という話である。


この小説で一番興味深いのは、主人公がなぜそもそもこの猫を拾ったのかについて、積極的な理由が書かれてないということだ。
ただ、目の前に死にそうな猫がいて、周りに居たほかの人たちが誰も引き受けようとせず、「逃げられない」状況がそこに生じた。
そして、引き取って育てはじめてみると、自分のことがなにもできなくなって大変そうなんだけど、

『大げさに聞こえるとは思うが、自分のことを何もせずに誰かのことだけをするというのは、じつは一番充実する。』

『人生というものが自分だけのものだったとしたら無意味だと思う。』


というふうに書かれているように、その世話に没頭していくのである。


この行動が、「自分のため」のものか、「他者のため」のものか、と問うことは不毛だろう。
これは、フロイト的な感情の論理ではない。
フロイトの場合、一見「他者のため」という理想主義的な行動にすぎないものと見えても、実は強い意味で「自分のため」なのだから、その行動は「本物」なのだ、というふうな言い方だ。
こういう言い方が出てくるのは、彼が人間の感情を近代的なプログラミング(欲望)の問題としてとらえたからだ。それは、産業資本主義の論理とも重なる。


だが保坂が書いていることは、そうしたプログラミングが瓦解したり失効しても、人間は理念なく善をなしてしまう場合がある、ということだ。
その理由は、「生きる歓び」の後半部では、生きること自体が歓びであり善である、という認識として語られている。だが、そもそもはじめの段階で、この主人公の行動を支えていたものはなんだったのか。
それは、プログラミング以前の、「感情の形成」の過程としかいえないものだと思う。
状況に身を任せ、そこから逃げ出そうとする抑圧を自分にかけずに生きてみるという、受動的な選択。そこから、生きていることの流れとの合体の結果として生まれてくるような、拘束的でないような「感情」の形成。


近代以後の社会で、善が可能であるとすれば、そうした非理念的な過程を経ることによってでしかありえないということが、ここには書かれてるんじゃないかと思う。