「キャットナップ」

保坂和志の短編「キャットナップ」は、文庫本『猫に時間の流れる』に収められている。
あらすじということではなく、興味のある部分についてだけ紹介する。


この小説の後半は、次のような話である。
ある病院の敷地内に野良猫が20匹ぐらい集まって暮らしていて、入院患者になついている。ところが、そのまま放置しておくと繁殖して数が増えすぎて困るので、病院の人が生まれてきた子猫を定期的に捕まえて殺しているらしい。
それによって数が一定に保たれているわけだが、そのことを知った人たちが猫が殺されるのを防ぐために、大人の猫を捕まえて去勢や不妊手術をすることを思い立ち、実行することになる。


猫好きの上村さんという、一人暮らしで30歳ぐらい(たぶん)の女性の意見は、子猫が殺されることを阻止するために、断固猫を捕まえて去勢と不妊手術を強行すべし、ということなのだが、主人公の「ぼく」にはためらいがある。そんなことをするのは「猫にかわいそうじゃないか」と思うのである。
だが上村さんは、自然のままだと野良猫のメスは年に三回も四回も子どもを産むことになるし、オス猫は発情期に喧嘩をする。猫の体にとっていいことではない。子孫が残せないからとか、セックスができなくなるからというのは、人間の発想にすぎない。手術をしたほうが、むしろ猫にとってはいいのだ、というのである。


このへんの両者の考え方の差異は、この少し前のところに、上村さんが下着泥棒に入られたという話が出てきて、そこに伏線があると思う。
「ぼく」が、その行為に関して「情熱はたいしたもんだ」という言い方をすると、上村さんは、『下着泥棒も痴漢も、男の人が女に向って一方的に仕掛けてくる暴力でしょ?』と強く反駁し、その口調を聞いて「ぼく」は『上村さんの暴力性にふれた』ように感じる。
女性がそこで受けることになる暴力を感覚的なものとして了解しようとする「ぼく」に、上村さんは、それは「肉体にくる暴力」なんだと言う。

「あたしは女の中では相当大柄で、男だって半分はあたしよりも小さいけど、それでも男の人が本気になって力出したらかなわないでしょ。
 男の人はそれに気がついていないし、もっともあたしは気がついていないんじゃなくてごまかしてるんだとしか思わないけど、とにかくなんやかや言ってその単純な力関係をなかなか認めようとしないでしょ?
 そういう力関係が背景にあるから、男の人が軽く言ったことなんかでも、けっこうしっかり忘れられないことなんかもあるしね」(p145) 


こう言われて、「ぼく」は反応に困ってしまう。


ここでは、性欲に関して、興味深い考えが提示されている。
その発端は「倒錯」についての、「ぼく」のニュートラルな評価で、これは短編「猫に時間の流れる」で書かれていた、野良猫がテリトリーを守ろうとする行動と、人間の恋愛とを、ともに「拘束(プログラミング)」として相対的にとらえる作者の観点に関係している。
上村さんの反駁は、「拘束」に対するこの相対的な(ニュートラルな)視点が、実は現実の権力関係を隠蔽したところに成り立っているものではないか、という議論になっていると考えられる。
この対立をめぐって、「暴力」というテーマが浮上している。
そこで、この対立は一見、男性と女性というジェンダー間の対立(相違)であるかのようにみえる。


だが、上村さんの求めに応じて猫の捕獲作業に協力することになった「ぼく」は、そこで田中さんという上村さんの友人の男性と話をするうち、猫の去勢や不妊手術の妥当性についての上村さんの考えは、むしろ田中さんの影響によるものではないか、と考えるようになる。
田中さんの考えの基本は、猫というのは人間が作りだした生き物であって、自然の一部ではないということ、だから野良猫が増えてきた場合には、食料の調達も数の調整も、人間の責任においてやるしかないということである。
不妊手術を行うことによって人間が猫の生殖をコントロールするのは、ベストのやり方ではないが、猫が殺されないためには決断して実行するしかない方法だ、というのだ。


たしかに、猫の生殖の管理ということと、人間の性欲の問題とは違う。
だが、この本来は別個である二つの事柄が、小説においてはどこかで不確かに共鳴しあっているような印象を与える。
それを考えるひとつの鍵は、生殖を抑制するために行われる去勢や不妊手術というコントロールの手段が持つ暴力性を、どうとらえるかということだろう。これはおそらく、「ぼく」が下着泥棒をめぐる会話の中で上村さんの口調に感じとった暴力性に通じるものなのだが、その暴力性の由縁を「ぼく」は女性である上村さんではなく、上村さんの心理を穏やかに代弁する田中さんの発言のうちに見出していくのである。
ここに、言語によって構成され、また分断される人間の社会の欲望と暴力の構造に対する、作者のある批判的な直観が見てとれるのではないか、という気がする。


ところで、その田中さんはまた、犬に比べて猫はあまり攻撃的にできていないのかもしれない、ということを言い、『猫ももう少し強くつくられてもよかったかもしれないね』(204ページ)と呟く。
猫の攻撃性の弱さ、あるいは猫の「弱さ」そのものは、人間がつくりだしたものだろう。それを肯定できるかどうかは、人間が自分たち自身の社会を肯定できるかどうかに重なる事柄なのだろうが、しかし攻撃性の否定(否認)そのものがまた別種の暴力になりうる可能性を、この小説は示唆しているのかもしれない。

猫に時間の流れる (中公文庫)

猫に時間の流れる (中公文庫)