草なぎさんの件につき

草なぎ剛さんが逮捕された件に関して、世論が概ね支持か擁護に傾いたことは、ぼくにもちょっと予想外の出来事だった。


なぜあれほど支持されたのかと考えてみると、これは草なぎさんというタレントの、普段からの印象に大きな理由があるのではないかと思う。
彼は真面目そうで、どこでストレスを発散するのか心配になるほどだ、という芸能関係者の声を、事件後であったか、いくつか聞いた。そう言われると、テレビを見てもたしかにそんな印象があった。
それは一口に言うと、ストイックな雰囲気を見る人たちの多くに感じさせたといえるのではないかと思う。


無論、実際の草なぎさんがどんな人かは、知る由もない。
ぼくは、あの時の彼の行動が、警察に抵抗したということも含めて、ストレスや泥酔によるものと片付けたくない気持ちもある。
また、普段『ぷっすま』などで見せていた、ちょっと風変わりな感じも、ストレスの現われと受け取れないでもないが、もともとの個性の表出という面もあったかと思う。はっきり言えば、あの風変わりさを見ていれば、今回の行動も、それほど意外ではないという感がある。
そういう個性というか、持っているものの現われのように草なぎさんの行動をとらえて、それをストレートに支持した人も少なくなかっただろう。
ぼく自身は、それを無条件に支持する程には自由になれないところがあるが。


だが、今回の彼の行動をどう捉えるかは別にして、また警察の対応についてもここでは考えないことにして(これこそが問題にされるべきだが)、ここで言いたいことは、多くの人たちは、草なぎさんを、普段ストレスに耐えて自分の役割を演じている、あるいはただたんに純朴で真面目な好青年のように捉えていて、その人が、ストレスの故なのか、酒と若さの故なのか、ちょっと逸脱的な行動をしてしまった。そういう風に感じただろうということである。
つまり、この人は元来非常にストイックであって、真面目に日常を送っているのだが、たまたま逸脱してしまった。
この際、人々は、自分が感じているストレスや、日常的な価値観への従属の感情を、草なぎさんというタレントのストイックな雰囲気に投影していたのではないかと思う。
そういう投影(同一化)があったゆえに、多少の逸脱的行動も、「誰にでもありうること」として容認され、むしろ支持されるに至ったのではないか。


このようなストイックな印象の人物への、大衆の支持は、ぼくはたとえば、湯浅誠さんについても感じる。
社会運動に反感を持つような人でも、湯浅さんに限っては尊敬や信頼を寄せているという例を知っているが、これは湯浅さんの活動ぶりや説得力といったものとは別に、そのストイックな雰囲気が、現在の社会を生きている人たちの共感を得やすいからだろうと思うのだ。


みんな、「自分は耐えている」「従っている」というような思いがあるので、そのように見える対象(人物)に対しては、とても共感しやすい、むしろ共感したいのだと思う。
逆に言うと、ストイックと思われていない人間が、逸脱的な行動をしたり、異議申し立てを行う場合には、それは人々の反感の対象になりやすい、ということではなかろうか*1


今回草なぎさんの件で、かえって警察の方に多くの批判が向けられたのは、逮捕の不当さを考えたとしても、異例のことである。
これは、警察が悪いのだから、当然とは思うが、普通はなかなかこうはならない。そのエネルギーを思うと、逆に怖い気もする。
それほど、人々の不満やストレス、そしてストイックな誰かに同一化したいという気持ちが高まっている現われとも考えられるからだ。


それは、たとえば今と同じような不況の時代に、2・26事件に参加した青年将校たちのストイックさを支持した大衆の感情と似ているかもしれない。
そういえば草なぎさんには、そういう時代の雰囲気をちょっと感じさせるところもあると思う。


ここまで書いてきて気が付いたが、ストイックな印象の人が支持されるという論理では、東京マラソンで倒れた松村邦洋が多くの人に声援を受けたという最近の例を説明できそうにない。
思い付きを書いただけなので、あまり真に受けないでいただきたい。

*1:余談だが、もし草なぎさんが、酒を飲まずにあの行動をとっていたら、世論の反応はどうだっただろう?