『ケインズ』

ケインズ (講談社学術文庫)

ケインズ (講談社学術文庫)


ケインズの思想の丁寧な解説だけでなく、「ポスト・ケインジアン」と呼ばれる後継経済学者たちの理論の紹介や、80年代当時のケインズ批判の流れなどにも幅広く言及してある本で、名著と呼ばれるべきものだと思う。
後学のためにメモをとりながら読んだが、特に印象深かったことを二点。


ひとつは、ケインズの経済学というと、ニューディール政策に結びつく30年代のアメリカの経済状況との関連で捉えがちだが、実際には主著『雇用・利子および貨幣の一般理論』に結実する重要な部分は20年代のイギリスの状況に対する処方箋として考えられたものであるということ。
これは19世紀の植民地経営によって蓄積された富裕な人々の富が、海外投資に流れてしまって、国内の市場が停滞し、経営者と労働者の双方が苦境に陥っているという当時の状態の改善を目指したものだったが、さらに大きく見れば、次のような認識がケインズの経済学の底にはあったらしい。
下は本書の278ページに引用されている、ケインズ自身の文章である。

私は自由放任主義の経済体制と、十九世紀後半において正統的なものであったような、国際金本位体制の下においては、政府にとって国内における経済的苦悩を軽減する道は市場獲得競争による以外にはなかったということを指摘した。なぜならば、慢性的な、あるいは間欠的な過少雇用の状態を救済すべき方策は、貿易差額を所得勘定において改善する方策以外にはすべて無効に帰したからである。


つまりケインズの考えでは、帝国主義時代から第一次大戦に至る資本主義経済の仕組みは、自由放任経済と金本位制との組み合わせによって、海外市場による一国の国内経済の繁栄は、「近隣窮乏政策」とならざるをえないものであった。
そこでは各国家は、「不況を海外に輸出する」という形でしか、経済を繁栄させ、雇用を維持することができなかった。
ここに、戦争の原因があると、ケインズは考え、この仕組みを変えようとしたのである。


ケインズ理論は、このような経済のあり方に対して、一国の経済の内部において所得を引き上げ、雇用を創出して景気を改善していくことが可能であるということを論証しようとする目的を持っていたのだった。
それは、各国が、自国の経済問題を自国の内部で解決することにより、戦争や紛争を回避しようとする目的を持つ経済学であった、というわけだ。


以上のような指摘は、本書の特に277ページ以下でなされているものだが、こういう観点は、これまでまったく考えたことがなかった。



次に二点目だが、ケインズの経済学は、それが乗り越えようとしたマーシャルなど古典派(新古典派)の経済学と同様に、「競争的市場」という非現実的な前提に立つものであり、そこに限界があった、という指摘である。
そこでケインズを継承したその後の経済学者たち、特にイギリスのそれは、「寡占市場」、つまり少数の大企業が競争を行うという現実の市場のあり方に即したものに、理論を発展させていこうとしたらしい。
ケインズが、このような前提に立っていたということは、彼が現実の市場の権力的なあり方を見ようとしなかったことを意味するだろう。
またケインズの経済学には、「与件としての政治分析」(p399)に対する甘さがあったという指摘もされている。


要するに、ケインズは彼以前の経済学を、大量失業という現実の状況に対応できない理念的なもののように見なして批判したが、彼自身の理論にも、やはり現実を捨象・否認しているような面があった。
この点は、重要だと思う。
ただそれでも、ケインズの思想の(新古典派とは異なる)特異な面は、人間には未来を確実に見通すことができないということを認めていたこと、その前提を持った上で、政府による介入や知性(エリート)による統御の必要を、いわば統整的に考えたと思われるところにあるのだろう。