『私が見た、「韓国歴史ドラマ」の舞台と今』

私が見た、「韓国歴史ドラマ」の舞台と今

私が見た、「韓国歴史ドラマ」の舞台と今



本書は、以下のようなエピソードから書き始められている。

70歳代半ばのうちの母も、たまに韓国ドラマを観ているようで、首をかしげながら私に質問してくる。
「韓国では、どうして酒を飲むとき横を向くんだい」
「女が座るときは、どうして片膝を立てるんだい」
日本人の習慣と違うのがどうも納得いかない様子だ。
「韓国だからといっていつも酒を飲むときに横を向くわけじゃない。これは儒教の教えに従って、父をはじめ目上の人を尊敬するという意味から、面と向かっては酒を飲めない。杯の底を見せないように横を向いて一気に飲み干してしまう。それが目下の人間の酒の飲み方なんだよ」 
「オンドルという床暖房が普及した韓国では、お尻を床につけて座る。そのほうが温かくて気持ちがいい。男はどかんと胡坐をかいて座るが、女性は片膝を立て、もう一方の脚は前で折る。でも、長くて幅の広いチマで覆っているから、ちっとも見苦しくないし、下からの熱もチマのなかで保てる。オンドルで日本のように正座していたら、あの大陸性の寒い冬に何のための床暖房なのかわからない。正座するというのは、畳の上で体の熱を逃がさない座り方なのさ」
長く話すとややこしくなるので、わかりやすくはしょって説明すると、フーンとうなずき、さらに次の質問を畳みかけてくる。
(こりゃ、ドラマじゃなく、韓国にはまったぞ)
 私は思わずにやりとする。              (p2)

今更言うまでもないことだが、著者の蓮池薫さんがされた体験は、ぼくにとってまったく想像を絶したものである。
それは、たんに悲惨であるとか残酷だといった否定的な意味だけでいうのではなく*1、こうした体験を経た人の考えや内面にどのような変化が生じるのか、それを体験していない者には決して分からない部分があるはずだ、という意味でもある。
上の文章から、ぼくが受ける感じは、そのことに関係したものである。




さて、本書でとりあげられるのは、日本でも放映された『太王四神記』や『朱蒙』といった韓国の歴史ドラマであり、その舞台となった時代の考証や、韓国及び北朝鮮*2における歴史観と歴史研究の流れが語られると共に、高句麗の文化や歴史が朝鮮半島の人々に与えている影響の大きさが説明され、そこから現在の韓国における「高句麗ブーム」という現象が社会的・政治的に分析されることになる。
たいへん読みやすく、丁寧な書き方がされていると思う。


まず本書の大きな特徴の一つだと思うのは、韓国の資料もさることながら、『朝鮮全史』など北朝鮮側の資料が豊富に引用、紹介されていることである。
これは、ここでテーマとなっている「古朝鮮」や、とくに「高句麗」についての歴史観が、南北で著しく異なっていることにも関係しているのだが、それにしてもこうした日本における一般的な書物で、しかも韓国の歴史ドラマを扱ったもので、北朝鮮の歴史書や歴史研究、歴史観が(ときに批判的にであっても)、これほど多く紹介されるということはあまりないと思う。
つまり、書名には「韓国歴史ドラマ」とあるけれども、この本では朝鮮半島全体の人々の、考えや感情というものが、考察と理解の対象になっている、そのように感じられるのである。
これは、特に現在の平壌に都を置いたこともある高句麗に大きくスポットライトが当てられているという事情を差し引いて考えても、やはり印象深い。




そこで本書の二つ目の特徴として、著者の、朝鮮半島の歴史や、そこに住む人々の感情や考えといったものに対する、一通りでない深い理解というものを、叙述から感じることが出来ると思うのである。
それは特に、民族主義ということに関わっている。
歴史を振り返ることによって形成された、この民族主義というものの力が、朝鮮半島の人々の高句麗に対する強い思い入れの背景にあり、とりわけ現在の韓国において沸騰している「高句麗ブーム」の底に見られるものでもあると、著者は分析しているようである。
一文を引いてみよう。

韓国の人たちは、自分の国が長い歴史のなか、大国に囲まれながらも、民族国家を維持し、発展させてきたという高い誇りと自尊心を持っている。さらに過去、侵略を受けたことは多くても、他国を侵略したことはないという意識も強い。これは「被害者意識」として否定的に表れるときもあるが、二度とこのような歴史を繰り返してはならないという教訓的な意味合いのほうが強い。竹島問題などの歴史がらみの領土問題には、非常に厳しい姿勢を見せ、また「東北工程」問題など自国の歴史評価にかかわる事件には、全国民が一つになって敏感な反応を見せるのは、おそらくそのためだろう。(p162)


こうした文章から読み取れるのは、まず他者をよく理解することからはじめようとする著者の姿勢であると思う。

日韓の相互理解を深める上で、韓国人の歴史観、南北間の歴史観の違いを知ることはとても重要だ。日韓間のぎくしゃくした問題は例外なく、歴史にそのルーツを持つものであり、そこには両国民間の歴史観の違いが要因になっているからだ。相手の主張に従うということではなく、相手の主張に耳を傾け、その背景を知ろうとする姿勢が相互間に必要だろう。(p166〜167)


中立的に当たり前のことを言っているだけと思えるかも知れないが、今の日本では、この当たり前のことが出来なくなっているということが、著者にはよく見えているのだろう。
ぼくはそこに、著者が、その体験のなかで獲得することを余儀なくされた、「外からの視点」のようなものを感じる。




また第4章では、歴史ドラマに代表される現在の韓国の「高句麗ブーム」の背景として、政治的理由からこれまで高句麗を高く評価しない歴史観を掲げてきた韓国国民の認識・意識が、90年代以後の民主化と南北関係の改善、また中国によるいわゆる「東北工程」の波動を受けて、民族主義的な立場から、北朝鮮がこれまで一貫して掲げてきた高句麗重視の歴史観へと接近したという事情が説明されている。
文化においても、また政治・軍事的な面においても、広大な領土を守り通して繁栄した高句麗は人々の民族的な誇りの象徴と考えられるようになっているというのである。
周囲の国際状況にも影響された、こうした民族主義的な傾向の高まりが、「高句麗ブーム」の背景にある、というのが著者の見方である。



また第5章では、著者が拉致されて24年間を暮らした平壌で見た、高句麗時代の遺跡について回想されているのだが、この部分は、やはり本書の中でもひときわ印象深いところの一つである。
少し引用してみる。

 そのあたりから山城のてっぺんにある峰まで車で上がれるようになっていた。私たちは乙支峰や長寿峰などいくつかの峰に登ったことがあるが、そこからの景観は遠くまで見渡せて素晴らしかった。
 長寿峰は私と家内が北に拉致されてから、1年9ヶ月ぶりに再会したときに、デートしたところでもあった。もちろん見張りつきだった。私と家内は北に拉致されてからのことをお互い話してはいけないと指示されて会った。しかし、高句麗時代に積まれたかもしれない山城の石に腰かけた私たちは、そんな指示はどこへやら、それまでのことを一生懸命話し合ったものだ。もちろん日本語だから見張りの人にはわからない。そのときばかりは、まわりの景色などまったく目に入らなかった。嬉しいながらも、先のことを考えると切なくて不安だった思い出が残る大城山だ。(p146〜147)

 この大同江にそって、他にも大同門、平壌鐘、練光亭など高句麗時代の国宝が並んでいる。大同江の遊歩道には、定年退職したような年配の人がぶらぶらと散策をしていたり、夕方になると、若いカップルがデートを楽しんだりしていた。平壌でもなぜかホッとできる数少ない憩いの場の一つだった。(p150)


そこにやはり人々の暮らしがあり、美しい風景や遺跡がある。
これも当たり前のことが書かれているだけだが、今こうしたことを書く数少ない日本人が、著者のような体験を強いられた人であるという事実を、どう受け止めるべきだろうか。




さらに、ぼくがもう一箇所、この本の中で強く引かれるのは、第6章のなかの、著者の歴史ドラマ鑑賞法を述べたくだりである。
そこで著者は、自分はこれらの韓国のドラマを見ながら、主人公だけでなく、悪役の心理にも強い関心を持つ、と書いている。

もとはといえば心やさしい純粋な子どもなのに、あれほどまで残酷で凶暴な人間に変わってしまうのだ。悪役ではあっても、ホゲはタムドクをただ引き立たせるためだけの悪役ではない。一つの運命を背負った人間として、復讐心だけを糧に戦い、生きていく。たとえ、その行動は冷酷無残ではあるが、その背景にある彼の屈折した心理は、人間としてよく理解できる。(p171〜172)

たとえ悪役でもその傷を知ってやるところに、奥深いドラマ鑑賞の楽しさがある。(p172)


冒頭に引いたエピソードもそうだが、この箇所を読んでいても、感じられるのは、一種の凄みのようなものだ。
ここに書かれているのは、「罪を憎んで人を憎まず」とか「どんな悪人にも、それなりの事情がある」といった考え方とは、まったく違うであろう。
むしろ著者は、自分を悪をなしうる者の側において、そういうものとして「人間」を理解しようとしているように思える。


また、著者はここで「ドラマ鑑賞」について語っているが、まるでドラマを見るように、自分が居る現実を見ているようでもある。
「外からの視点」というのは、そういうことでもある。それはきっと、同じ体験をしていない人には、(たとえ身内であっても)共有しがたいものだろう。
それにはやはりどこか、ぼくをぞっとさせるところがある。



だが以上のようなことは、この本から伝わってくるものの一面にしか触れていない。
上のようなことを、ひとことで言い表す別の言葉があると思う。
それは、「ユーモア」という言葉だ。
冒頭に引いた「まえがき」のなかのエピソードからも、そしてこの本の全体のすみずみから、伝わってくる最も重要な要素は、力強いユーモアのようなものだ。
現実の出来事や状況の過酷さを直視しながらも、その状況のなかに自分が在ることへの精神的な距離を失わない、という態度。
おそらくこの態度が、高句麗の文化の豊かさや、韓国歴史ドラマの魅力を語る著者の生き生きとした筆致を支えている。
それは、過酷である生の経験や歴史への、穏やかだが力強い肯定の態度、とも呼べるものである。
そのことが最も、この本を読む人の心を打つだろう。


そして、こうした生への肯定の態度とおおらかなユーモアこそが、著者がその体験を通して、朝鮮半島の歴史と風土、人々から享受し獲得した、最上のものであると考えたい。
この本は、われわれの生と思考を、外へと誘う力を秘めているのである。

 私は思わずにやりとする。 

*1:この一節に如実に描かれている通り、言うまでもなく残酷だが。

*2:ぼくは普段、朝鮮民主主義人民共和国のことを「朝鮮」と書いているが、ここでは本書の表記に沿って「北朝鮮」と書く。