『北朝鮮へのエクソダス』・その3

前二回の続き。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070815/p1
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070815/p2


北朝鮮へのエクソダス―「帰国事業」の影をたどる

北朝鮮へのエクソダス―「帰国事業」の影をたどる

「自由選択」をめぐって

これらの物語はどうしても聞かれなければならないし、わたしはその複雑さをそっくり残したまま伝えたい。しかし、書き、引用し、編集し、削除するという行為そのものが、ある種の暴力のように思える。(p305)


前回書いたように、金日成政権にとってはやはり労働力確保の手段として、この「帰国事業」は見なされていた面があると、著者は述べているのだが、それに関する以下のような文章は、著者の歴史に対する見方とスタンスをよく示しているものだと思う。

ここには救いがたい皮肉が見える。在日朝鮮人の多くは、もともとは戦時日本の鉱山労働力の必要から連行された。その人たちが今、北朝鮮経済において同じ役割を果たすべく帰国を促されている・・・。(p230)


日本政府にとっても、金日成政権にとっても、個々の在日朝鮮人の存在や人生は、「労働力(生産)」や「福祉予算」といった経済問題や、政治の駒のようなものにすぎない。
その大きな論理により、人々の生存が決定され、強制的な(多くの場合、名目だけは「自由選択の結果」なのだが)移動が行われるという現実は、時代を越えて少しも変わってはいない。とりわけ、社会のなかで周縁(辺境)に置かれている人たちにとっては。
では、このような国際政治の、また歴史の大きな動きのなかで翻弄された、これら個々の人々の人生や体験、記憶、感情、言葉、あるいはそれらの不在といったものへと向けられる著者の視点は、どんなものだろう。


「帰国事業」を考えるうえで重要なことのひとつは、この多くの人たちの帰国が、ほんとうに、またどの程度「自由選択」によってなされたものであるといえるか、ということである。
差別や偏見、また国籍の一方的な剥奪(1952年)にともなう社会福祉からの「排除」などの日本の差別的な政策に大きく起因する経済面などの苦境があったとはいえ、著者によれば50年代終わりごろにはじまる総連の大規模な帰国推進キャンペーン以前には、帰国を真剣にのぞむ在日朝鮮人の数はきわめて少なかったことが、本書では繰り返し論証されている。
実際、国際赤十字委員会が、この事業への協力にあたって大きな懸念をもったのも、この点だった。

それにしても、出国がほんとうにどこまで自発的なのかは、在日朝鮮人のおかれた状況を知らずに判断することは不可能だった。なんといっても、社会福祉の受給権や居住権のない人たちは、真の意味での"自由な選択"ができる立場にあるとは言えないだろう。さらには、人の心を惑わすプロパガンダ攻勢にさらされている人たちも・・・。(p247)


「共和国」を「地上の楽園」などとする「プロパガンダ」によって悲劇を大きくした罪は、朝鮮の政府や朝鮮総連ばかりではなく、日本のマスメディアや左派勢力も、その責任を問われるべき問題だろう。
それはともかく、「自由選択」をめぐるこうした懸念から、国際赤十字の側は、帰国のための船に乗る直前に、この人々に個別に面会して最終的に帰国の意志の有無を問う「審査」を新潟港で行おうとするが、日本側や朝鮮側の反対によって、結局それは十分に行われなかった。
はじめから歪められた情報操作と、差別的な制度の圧迫のなかで「帰国」が選択されたという面があっただけではなく、なかには最終的に「帰国を拒む」という意思表示をする機会を奪われたまま、なかば仕方なく日本海を渡った人たちも居たことが、具体的に書かれている。
冒頭に近いp44で紹介され、本書の終わり近くでその真相が明かされる、或る帰国者の男性の次の言葉は、この実情に関係するものであり、強い印象を残す。

わたしの権利は無視された。わたしが書くのは、わたしの気持ちをこれ以上はっきりと正確に表わす方法がほかにないからだ・・・・きっとわかってもらえるだろう・・・・。(p280)

帰国の物語

この問題を含めて、「帰国」の当事者となった人たちそれぞれの過酷で複雑な体験に接近し、その体験や記憶と自分自身との「距離」を含めて文字の形で書き記し、現在の読者というアクチュアルな他人たちに具体的な何かを伝えようとする著者の願いが、この本の全編に込められているといえるだろう。
最終部のいくつかの章で語られる在日朝鮮人や、いわゆる「日本人妻」と呼ばれる人たち、それは「帰国」の後、数十年の朝鮮での生活を経て「脱北」という形で日本に戻ってきた人たちだが、この人たちの朝鮮での体験や思いの記述にも、よく示されている。
著者は、例えばこう書く。

帰国体験の物語はひとつではない。九万の違う物語があり、それぞれにたくさんの急変も変転もある。人生の半分、あるいはそれ以上つづいた物語なのだから。苦痛には生存と笑いが、矛盾と平凡な日常が、まじっている。(p305)


そうした聞き手、語り手(著者)の感覚をとおして語られる小さな「物語」の数々については、本書を読んでもらうしかないのだが、ぼく自身はたとえば、ある「日本人妻」が語ったという、次のような言葉が強く印象に残った。

「まわりの人たちは親切でしたなぁ。正直言うと、日本の人って冷たいですよね。でもあの朝鮮の人たちはほんとうによくしてくれました。隣近所でも、ちょっと珍しいものが手に入ると、必ずお裾分けをもってきてくれたり、そんなことはあったでしょう。お互いに苦労しながらもね」(p309)

不満の残る点など

ここで、ぼくが感じた不満な点を、二つほど書いておく。
ひとつは、この本の主眼のひとつといってよい、日本赤十字が「帰国事業」推進において果たした役割、なかんずく、50年代中ごろの早い時期からの国際赤十字委員会や朝鮮政府への働きかけにあたって、日本赤十字が日本政府から具体的にどのような指示を受けていたのか、という実証に欠けていると思える点である。
たしかに、朝鮮人を日本からなるべく「排除」したいという意志が、日本の政治家や官僚、あるいは井上益太郎のような赤十字の幹部にあったことは、本書に紹介された発言録や公式文書から知ることができる。
また、井上が、日赤に入る以前に外務省分析官として中国など東アジアの共産主義勢力の情報収集に当たっていたという経歴や、在日朝鮮人の「強制送還」に熱心だった政治家岡崎勝男との太いパイプがあったことなどから、「排除」の方法としての「帰国事業」推進が、政府と日赤との連携のもとに行われたであろうことを推測することはもちろん容易だ。
だが、それはどうも「状況証拠の積み重ね」という段階にとどまっている気がする。
説得力のある実証的な「決め手」が、欲しい気がするのである。


不満の二つめは、もっと大事なことだ。
それは、日本の左派勢力やマスコミの、この問題に対する責任、果たした役割というものが、ほとんど問われていない点。
前回のエントリーの中で、日米安保の改定を目前に控えていたがゆえに、アメリカは、「帰国事業」をめぐる日朝の接近を容認せざるをえなかったのだ、という著者の見解を紹介した。
これは、「帰国事業」が、日本では右派や保守派から左派まで、一致して支持されたイシューだったことによる。この点は、本書の中で何度も書かれており、当時の政治家や日赤幹部も、その点を強調して「帰国事業」の必要性を対外的にアピールすることが多かった。
そしてもちろん、社会党共産党などや、多くのマスコミの協力なくしては、「帰国運動」も「帰国事業」も、あれだけの成果をあげることは出来なかったはずである。
本書では、日本政府や官僚、保守派についての批判はあるが、左派やマスコミについての批判はあまりない(朝日新聞の記事は、何度か批判的に引用されているが)。


実はこのことについては、著者も本書には『まだ空いたままの穴がたくさんあることは承知している』(p328)と述べたうえで、しかし、実際に計画を実行に移す力を持っていたであろう各国政府や赤十字朝鮮総連などに分析の光を当てたのだ、と書いている。
その通りであろうが、プロパガンダということを含めて、この問題に関する限り、左派が組織的に果たした役割は小さくなかっただろうとも思う。


それ以上に、こういうことを思う。
なぜ在日朝鮮人の帰国が、日本政府や官僚、保守派、右派だけでなく、日本の左派にとっても、またマスコミや一般の(多くはリベラルな)市民にとっても、当然支持すべきテーマと見なされたのかは、考えなくてはいけないことだろう。
自ら「左派」を名乗るのなら、時代の制約があったとはいえ、在日朝鮮人にとってもっとも望ましい選択が「帰国」であるとの言説に賛同する前に、自国の差別的な、あるいは不当な政策なり法なり、社会のあり方なりを変えていく努力をもっとするべきだったのではないか。だがそうはならず、もっとも望ましいこの問題の「解決」は、朝鮮行きの船にこの人たちの多くを乗せてしまうことであるという結論を、政府や保守派と共有することになったのである。
在日朝鮮人の「帰国」が、全国民的な総意となってしまったことの意味は、左派にとってはとりわけ重く、自ら問い直さなくてはならないことではないかと思う。
だからこれは、本書への不満というよりも、今後ぼくたちがあらためて自問していくべき事柄だろう。


本書を読むと、「帰国事業」と呼ばれるものが、第二次大戦中のナチスによるユダヤ人のマダガスカルへの移送計画や、スターリンによるユダヤ人や朝鮮人強制移住にも似た側面を持っていたという印象を持たざるをえない。
そこに感じられるのは、異質な人たちを、ときには「自由意思による選択」という装いを凝らしながら、実際には強制的に「排除」することで、問題を「解決」し、安定した社会を作ろうとする、社会的な欲望のようなものである。
しかし、こうした欲望の実現が可能となるか否かは、じつは多数者であるわれわれ個々の、行動や言動に委ねられているのだと思う。
「帰国事業」が問いかけてくるものは、決して過去に属することではないのである。


最後になったが、朝鮮総連に関して著者はあとがきにこう書いている。

さらに、総連がメディアに悪鬼のように扱われている昨今の政治状況で、本書がそれに油を注ぐようなことにならないことを、むしろ、帰国事業に関する討論は総連が未来に向って新たな道を行くためにも、過去と現在の総連関係者が過去を再吟味するきっかけになることを、切に願っている。(p339)


ぼくもこの言葉に心から同意することを、記しておきたい。


(了)