戦争に反対する理由

先日テレビを見てたら、アメリカではロボットを人間の代わりに戦わせる研究が本格的に進んでいる、ということがとりあげられていた。
こうした技術が発達すれば、戦争へのハードルが大きく下がるであろうという。
自国の兵士に死傷者が出ることが戦争に反対する世論の大きな原因となり、それが戦争に踏み切ることを政府にとって困難にしているということは、アメリカでは特によく知られているからである。


実際、イラクやアフガンに対するアメリカの攻撃は、事実上、この論理に沿った「ロボットによる戦争」の初めの段階とも呼べるものだった。
地対空ミサイルのまったく届かない高度からの大規模な爆撃や、はるか海上からのミサイル攻撃によって敵に打撃を与え、兵士たちの損害の可能性が極力少なくなるのを待って、本格的な地上軍の侵攻が図られたからである。


地上における戦闘を、飛行機やヘリによるものも含め、全てロボットに行わせようとする今の研究の方向は、兵士たちの死傷に伴う国内世論の反発の可能性を、限りなくゼロに近づけるだろう。
もちろん、ロボットによって殺戮される「敵」や相手国住民の数は、はじめから人命として考えられていないのだから、もともとこうした世論の仕組み自体が、まったく恐るべきものなのだが。


ところで「嫌戦」という言葉がある。
戦争に反対する意見のなかに、自分たち一般市民が、もしくは兵が、死傷し、多大な損害を被ったことの記憶をよりどころとし、「だから戦争に反対する」という考えである。
「ロボットによる戦争」が現実化すれば、こうした反戦論は、そもそもその基盤を失うだろう。
というより、現実に今の日本が行っている戦争協力は、自国の兵士の危険をたいして伴わないものである。
むしろ自国の民間人が「敵」の攻撃によって被る被害の想定が、「敵」を攻撃する正当な根拠であるかのように持ち出される。
「私たちが危険や損害を被るから、戦争に反対」という素朴な意見は、すでに効力を失っている、と言えるだろう。


無論、自分たちの被害の記憶に基づいて戦争に反対を唱えるということは、いま書いたような単純な意見ではない。
それは、この戦争の主体を国家とし、その暴力によって、人間の命が踏みにじられることへの反対というところに接続するなら、常に強い反戦の基礎たりうるだろう。
だが、そこに接続しない、私的・日常的な被害の意識や不安に基づいた戦争反対の意見は、すでにその効力をはっきり失い(もともとそれは、あったのか?)、むしろ戦争遂行のロジックとして機能してしまっている、というのが現状ではないか。


では、われわれが戦争によって被害にさらされる危険性が、ほとんどゼロであると考えられるときに、なお戦争に反対するとすれば、何が根拠となるだろうか。
ぼくはこれは、このような技術的優位と論理に守られながら、他国への侵攻と破壊が行われるならば、そこで守られているものは、もはや私たち自身には何のゆかりもないものだ、という強い自覚以外にはないであろう、と思うのである。


『こうした「無傷の戦争」は、そのこと自体によって、われわれがわれわれの生を生きることを、その可能性を、根底から破壊する。だから、戦争に反対する。』


このような論理以外に可能なものがあるかどうか、ぼくには今分からない。
これだけでは足りないかもしれない。だが、今はこれしか思い浮かばない。


これは、戦争だけでなく、マイノリティーに対する差別や攻撃に関しても、同様のことが言えるのではないか、と思う。
そうした暴力や抑圧は、それが行われ、またそれを黙認することによって、われわれ自身の生を、根底から破壊する。だから、それを黙認しない。
当面、この言い方しかないように思う。
これで十分かどうか、分からない。