歴史のなかの在日朝鮮人問題

先日ある友人と話していて、どういう話の流れだったか忘れたけどこんなやりとりになった。


いわゆる在日同胞の問題について、韓国の政府は長い間放置してきた。前の盧武鉉政権のときぐらいから一転して熱心にコミットするようになったのだが、それ以前はまったく冷淡であった。この点では、朝鮮の政府は教育をはじめさまざまな支援を在日の人たちに対して行ってきた。もちろん政治的な意図があってのことだろうが、国が行う支援というのは、そういうものだろう。
対照的に韓国の政府が在日同胞に対して冷淡な態度をとり続けて来たことが、心情的にも在日の人たちのさまざまな問題(国籍のことなど)に影響している。
そういったことを、ぼくはその友人に力説していて、友人(日本人で、あんまりこの問題に詳しくない)もさかんにうなづいていた。


そこで、ぼくは日本のことを引き合いに出した。日本政府も、自国から戦前戦後に海外(北・南米、フィリピンなど)に移住した人たちに対して、事実上棄民政策的な対応をとってきた。国家というものは、個人や民衆に対しては、そういう冷たい仕打ちをするものであるが、それはほんとうにひどいことだ(今書いてると、ひどい話の飛躍・一般化であると思う。)。
よく覚えてないが、概ねそのように言ったと思う。
ところが、そのとき友人は、深くうなづいた後、少し考えてから、次のような意味のことを言ったのである。

「韓国政府の場合は、植民地時代にやむをえず日本に渡った(連行されたりを含めて)人たちを放置したものだが、日本政府の場合は、いわば自由意志で渡った人たちへの対応が冷たかったというものだ。両者は同じではない。」


つまり、韓国政府の対応はひどいものであり、日本政府の対応はそれと比べるとそんなにひどいとも言えない、というような含意である。
韓国政府は、当然手を差し伸べるべき人たちを放置したが、日本政府の場合には、移民した人たちはそこまで歴然とした「犠牲者」とは言えないのだから。


それを聞いて、釈然としないものを感じたのだが、どこがおかしいのかもよく分からなかったので、曖昧にうなづいて次の話題に移ってしまった。
その後も、そのどこがおかしいのかを考えてたが、どうも思いつけなかった。
今日、ちょっとそのことを考え直してみた。


もちろん、これはぼくが、韓国の話と日本の話を並べて、一般論にしてしまったところに、原因があるのだろう。
日本と韓国の棄民政策同士を比べるというのは、二次的な話である。
重要なことは、在日朝鮮人の問題について言えば、植民地支配を行って人々を無理やり日本に連れてきたり来ざるをえない状況を作った国家(日本)と、当時は被支配の立場にあった国家(今の韓国・朝鮮)とを比較するということだろう。
すると、前者がなすべきこと(にも関わらず「なされていないこと」)はあまりにも多く、後者の「なされていないこと」は、それと比べれば、量的にも権利的にも極めて小さい、ということが分かる。
「権利的」といったのは、日本がなすべきことをしていれば、そもそも韓国がなすべきことはずっと少なかったはずだ、という意味である。
だから、韓国政府の態度がどれほど冷淡な(足りない)ものだったとしても、日本政府の冷淡さと責任は、それとは比較にならないほど大きいということは、明々白々だと、ぼくは思う。


そして、この日本政府の態度が、自国からの移民に対する棄民的な政策・対応にも現れてるわけである。
ついでに言えば、移民問題だけでなく、外国人労働者問題にも、年金問題にも、派遣労働者問題にも、ダム建設や公害問題にも、薬害問題にもそれは現れている。


もちろん、韓国の場合にも、日本に劣らないさまざまな国家の悪、冷淡さがあるであろう。別に韓国の政府の、まして今の政権の弁護をするつもりは、ぼくにはない。
だが、在日朝鮮人問題に関して言うならば、日本と韓国との加害性・責任の重さの違いは歴然としている。
われわれは「国家暴力」という普遍的なものを問題にしてよいし、するべきなのだが、個々の具体的な問題においては、その加担の度合いに違いがあることは確かであり、そうした具体的な違いを隠してしまってはいけない。


ぼくの話の持っていき方は、そこを曖昧にするものだったのだ。
なぜ曖昧にしたかといえば、「どの国家も冷淡なものだ」という一般的な見解を強調することで、相手の共感を得ようとしたのだろう。
逆説的だが、「韓国だけがひどいのではなく、日本も(どの国も)同じように冷淡だ」という風に言うことで、日本人にとっても政治的なハードルのようなものが下がる。話の質が歴史のなかの国家と個人の関係というようなシビアなところから、庶民の日常感覚のような領域に移行することで、受入れやすい話題になる。
そして何より、在日朝鮮人問題を、歴史のなかの出来事として明確に論じるなら、上に述べたような日本と韓国との責任の大きさの違いを強調せざるをえず、もはや政治的に「中立」ではいられなくなるからに他ならない。


実際に、ぼくが曖昧に「共感」を求めたことで、在日朝鮮人問題という歴史のなかの出来事の実質は見えなくなってしまったのである。そして、ただたんに二つの国の棄民的な政策が、フラットな場において比べられることになった。「フラット」という意味は、具体的な歴史性を欠いている、ということである。
だからいわば必然的に、友人は(彼はぼくから見ると、一面でナショナルな考え方を持っていると思うが)、上のように「違い」を主張して日本政府を擁護するようなニュアンスの発言をした。
そういうことではないかと思う。


それにしても、上の友人の発言における比較が妥当なものかどうかは分からない。「自由意志で」ということも、支援しなくてもよい理由になるかどうか、疑問がある。
国家として、経済的な余地があるなら、無条件にするべきことがあるだろう。そしてその「余地」は、常に日本の方が韓国より圧倒的に大きかったことは事実だ。
また、韓国に、そうした貧しさや、政治的な硬直をもたらした責任の多くを、当然日本は負っているはずでもあろう。


だが友人は、上の発言において、本当を違うことを言いたかったのではないかと思う。
ぼくが曖昧に話を一般化したことに対する苛立ちが、そこに込められてるのではないかと思うのだ。
(あの時の)ぼくのように話を一般化することで政治的なハードルを下げて幅広い「共感」を得ようとする態度に比べて、友人のような態度の方が、問題の具体的な質を、つまり在日朝鮮人や海外移民の問題から、われわれ自身が何を受け取るべきであるかということを、より鋭敏に感じていると言えるのではないだろうか。
つまりそれは、自分が住む国家の実態を正確に捉える(直視する)、という態度である。


さて、以上のようなことを述べると、拉致問題のことなどを持ち出して、自分の国がしたことは棚に上げて、「人を強制的に連れ去る国は、今でもあるではないか」という風に言う人も居そうだ。
それについては、一言だけ言っておこう。
拉致された人たちの生死は、決してないがしろにされてはならない事柄だが、戦前や戦中に連れてこられた朝鮮人たちは、生き残ったにせよ、亡くなったにせよ、すべてないがしろにされ、今でもされ続けているのである。
同じ人間なのに、そちらに対してはまったく心が痛まず、歴史をなかったことにしようという人たちは、まさに日本という国家の冷酷な体質を、十全に内面化してしまった悲惨な生を生きているというしかない。
この歴史的な問題は、今の自分たちの生をこの国のなかでどうしていくかということと、不可分な事柄のひとつなのである。