集団について

このところ、集団と個人ということをめぐって書いているが、それについて忘れがたい思い出がある。


あるとき、旅をしていて、国内のどの空港だったか忘れたが、誰も居ない広々とした待合室の椅子に座って、疲労からうとうとしてかけていた。そのとき、はじめは気配しか分からなかったが、物静かな10数人の集団がやって来て、自分の周囲をすーっと囲んだのだった。
このとき、ぼくは言いようのない安心感、暖かさを感じた。
周囲を見回してよく見ると、この集団は、初老ぐらいの年齢のすべて黒人の10数人の男女なのであった。この人達が、どこから来たのかは分からない。分厚いコートに身を包んでいるいでたちから想像すると、アメリカの南部の田舎町の、老人会か何かの旅行かも知れないなどと思ったが、この人たちはあまり口を開いている様子もなかったので、英語圏の人なのかどうかさえ、定かでないのだった。
この集団のなかに、自分が包まれている一人居るのだと思いながら、もう一度目を閉じたが、この時に感じた安心感は、人生のなかでも経験したことがないほどの、深く心地よいものだった。


ぼくは、集団というものは、たしかに人を力づけたり、何より深い安心感を与えるものであると思う。
だが、人間にとっての集団というものの、この力の核心をなしているものは、血縁とか民族というような同一性とは、まったく別種のものではないだろうか。
それらの属性は、この力の本質ではないのではないか。むしろ、この力の本質の方が、これらの同一性による集団が持つ肯定的な作用を保障していると言えるのではないか。
だから、この本質以外の部分(同一性)は、ときにはこの肯定力を阻害する方に作用する場合もあるのではないか。


さらに、上に書いた自分の体験から考えると、「同一性」ばかりでなく、集団の肯定力にとっては、(蓄積としての)「関係性」さえ本質的な要素ではないのではないか、とも思う。
どこの誰か知らない相手のほうが、出会いの瞬間の関係性の中で、純粋に人を守り、肯定し、力づける場合がある。
そんなことも思う。
もっともこのことは、「集団」というテーマからは外れることかも知れない。


たとえば、朝鮮学校を出た友人たちと接したり、また朝鮮学校のコミュニティーに、学校の行事などの機会に接することがあるたび、そのコミュニティーが、そこに属する人たちに与えている強い肯定力を実感する。
それは、差別的・抑圧的な日本社会に対する「対抗」、という意味には還元できないようなものを含んでいると思う。それは何か、人間にとって普遍的なものを含んでいるという気がするのである。


無論、これは聞いた話程度のことではあるが、人間の社会であればどこにもありうるような集団・コミュニティーの負の側面、たとえばそこから外れようとしていると見なされた人に、一部のメンバーからひどい扱いや言葉が差し向けられる、といったことがあるのも知っている。
もしそれで傷ついたり悩んでいる人が、身近に入れば、あなたが悪いわけではないというようなことは言ってあげたい。ぼくが、「介入」という時に考えるのは、個人的にはそのような事柄である。


だが、こうした「集団」が持つ肯定力、それはたとえば多くの「家族」のなかにも存在するであろうような、本来的には開かれた、非排除性を人間のなかに根付かせるような類の力であると思うが、この本質をなしているのは、同一性とは元来縁もゆかりもないものなのだと思う。
それは、自分が肯定されるという、穏やかだが確かな実感であり、それを基盤として、全ての他者を肯定することにつながっていくような、いわば普遍的な心の開放を人間に可能にするような作用なのだと思う。