大事なことが抜けている

ぼくが住んでる近くは、特別変った史跡のようなものもないのだが、ひとつだけ立派な碑の立ってるところがある。
三義塚、というのがそれである。

http://www.yama-r.jp/nittyu/jomaku/index.html

1932年(昭和7年)2月、西村真琴博士は戦争で傷ついた人々を救援するため、奉仕団の団長として中国を訪れ、活動していました。
  上海市を訪れた時、 戦乱で廃墟となった三義里街の一隅に、飢えて飛べなくなった鳩を見つけ介抱しながら日本に連れて帰りました。
  鳩は「三義」と名付けられ、はじめは新聞社の鳩舎に入れましたが、他の鳩ともよく馴れたので、とくに仲のよい一羽とともに、豊中市穂積(現在の服部西町)の自宅で家族同様に育てました。 博士は小鳩が生まれたら、日本と中国友好の証しとして上海市に送るつもりでした。講演会のたびに仲のよいこの鳩を伴ない、鳩をとおして両国民の親善を説いたといいます。
  3月16日、鳩はイタチに襲われ死んでしまいました。同情した村の人たちが野面石を持ち込み、塚を立て、博士の自宅庭先にある藤の根近くに、そのなきがらを埋めました。
  博士は「三義」の絵に『西東国こそ異へ子鳩等は親善あへり一つ巣箱に』の歌を添えて、中国の文学者、魯迅に贈りました。
  魯迅は感激し、1933年6月に七言律詩『三義塔に題す』を詠み、この不朽の名詩を博士に贈りました。
  三義塚は、博士が1956年1月に72歳で亡くなった後、1981年の春に、博士の旧宅から、豊中市本町8丁目の孫娘の家の庭先に移され、大切に守られてきました。
 その後、「三義塚」は、1986年10月の豊中市制50周年を記念して、博士のゆかりの深い中央公民館に移され、今日にいたります。


この文面が、そのまま碑の横の石の壁みたいなのに書いてあるのだが、

1932年(昭和7年)2月、西村真琴博士は戦争で傷ついた人々を救援するため、奉仕団の団長として中国を訪れ、活動していました。


とあっても、どことどこの戦争なのか、事情を知らず碑を通りがかりに見ただけの人には分からないだろう。
これを読んでも、「ひどいイタチだなあ」と思うぐらいである。


魯迅の詩は、こういうもの。
http://www.yama-r.jp/nittyu/jomaku/kanbun_s.gif


読み下すと、こうなるらしい。
http://www.yama-r.jp/nittyu/jomaku/yomi_s.gif


これを読んでも、具体的な事情は、やはり分かりにくい。


実は、こういうことなのである。

http://www.yama-r.jp/nittyu/sangitou.html

日本軍の飛行機の爆弾や銃火が中國人民を殺傷し井戸や垣をやぶり崩して町を荒廃させ、一羽の餓えた鳩をのこした。
たまたまその鳩が西村真琴博士の大慈悲心にあって火に包まれた家を離れたがとうとう死んで三義塚をのこし日本を(一つの気高い心の故に)記念している。
死んだ鳩は眠りから覚めて、かの古伝説に言う精衛の如く、日中間をへだてる東海を小石をくわえて埋めんとし、私と貴方(日中両国人民)は誠心かたく時流に抗して闘う。
 今は日中両国のへだたりははるかに遠いが長い年月を苦難して渡り尽くせば、日中両國の大衆はもとより兄弟である。その時逢ってニッコリすれば深いうらみも滅び去るだろう。
   一九三三、六、二十一 魯迅


日本の仕掛けた戦争だということは、ちゃんと分かるように書いてくれないと、ダメだよなあ。
美談というだけでは。
それを書いてこそ、この詩に込められた魯迅の思いの深さ、大きさも、人々に理解されるというものだろうに。