『生命学に何ができるか』読了

生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想

生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想


承前。
この本には、これまで僕がまったく考えたことが無かったようなことがたくさん書かれていて、たいへん刺激になった。汲みつくし難い本だと思う。
たとえば、中絶の問題を、女性ではなく男性こそが自覚的に責任を担って考えていくべき事柄として捉えた、「男たちの生命倫理」のインパクトについては、先にも少し触れた。
そこで示されているのは、殺害や破壊を行使することの痛みが、権力関係の強者から弱者へと順々に移譲されて行き、その末端ではもっとも弱い存在(「胎児」)が「餌食になる」とともに、相対的な強者である男性たち(マジョリティ)はそうした痛みを感じることなく、自らの共存的な生の可能性と実質を荒廃させていくという、植民地主義的な社会の構造そのものだといえる。
社会全体が、憎悪や攻撃性、そして戦争への希求へと駆りたてられていくメカニズムが、鋭く暴き出されているのだ。


また、胎児が障害を持っていることを理由にして中絶を行う、いわゆる「選択的中絶」について、著者はその最大の問題点は、それによって、全ての人々から生の基盤であるべき「根源的な安心感」が奪い取られるような社会が形成されてしまうことにある、と述べている。

たとえば、すべての妊婦が出生前診断を受けるような社会が到来したとしよう。そういう社会では、生まれてきたすべての子どもは、「親がこの自分の生命の質を吟味してOKを出したから自分は存在を許されているのだ」という感覚、すなわち「自分の生命にかんする、ある価値判断がクリアーされたから、自分の存在は許されたのだ」という根本感覚を抱いたまま生きなくてはならなくなる。この根本感覚は、一方において「自分は選ばれた人間なのだ」という選民的優越感をもたらすかもしれないが、他方において「自分の存在は無条件に祝福されたわけではないのだ」という存在不安をもたらす危険性をはらんでいる。(p343)

選択的中絶とは、この「根源的な安心感」を、その根底から浸食しようとする思想と皇道である。「人は、そもそも何かの条件をクリアーしたからこそ、存在を許されたのだし、何かの条件をクリアーしているから、いま存在を許されているのだ」という感覚を社会にさらに蔓延させ、人は無条件に存在していてもいいのだという感覚を背後から破壊してゆく。いわゆる「無条件の承認」「無条件の肯定」というものを、社会から駆逐してゆく。この点が、選択的中絶が本質的にはらんでいる最大の問題なのである。(p344〜345)

これなどは、僕がまったく考えたことのない視点だったが、「人は無条件に存在していてもいいのだという感覚」の破壊は、なにも「選択的中絶」に限らず、今日の世界、なかんずく日本の政治と社会体制の、基本的な目論見ではないかとさえ思えてくる。
「無条件の承認」「無条件の肯定」を社会から駆逐することこそが、今日の統治権力の原理ではないか。
かつてフランツ・ノイマンは、ナチスの政治手法の本質を「不安の制度化」という言葉であらわしたが、新自由主義化の現在では、それは一部の独裁的政治権力だけでなく、もっと一般的なものとして世界中の人々の上に覆いかぶさっていると思える。
著者の洞察の鋭さは、そうした事柄まで照らし出しているのである。


だが僕は、「生命学」の立場を唱える著者の考えの全てに同意するわけではない。
どうしても思ってしまうことは、著者のいう「生命」なるものが、ある種の他者の排除によって成り立っている想像的で閉鎖的な領域に過ぎないのではないか、ということだ。
この本での著者の批判は、二つの相手に向けられているといえる。
一つは、パーソン論と呼ばれるタイプの議論に代表される、とくに英米系の、だが世界的にも支配的といえる合理主義的、ないしは功利主義的な生命倫理の考え方である。
これに対しては、「生命」や「関係」「他者との出会い」といった事柄に重きを置く著者の立論は、一定の批判的な意義を有していると思える。
だが著者は、もう一つの批判対象を想定している。それは、規範的、あるいは義務的・命令的な倫理学のあり方と呼べるものだ。
著者はそれをたとえば、「正論の倫理学」と呼び、そのようなものではないものとして、みずからの(「生命学」にもとづいた)倫理学を浮き彫りにしようとするのだが、この著者が批判する「正論の倫理学」の像が、僕にはひどく具体性を欠いたものに思えるのである。
それは、みずからの倫理学の性格を確定するために、はじめから批判されるべき対象として著者の頭のなかで作り上げられた「敵」の姿のようにしか思えないのだ。
著者が、「正論の倫理学」とか「糾弾」とか呼んでいるものの背後にあるかもしれない、他者の存在の厚みやリアリティについては、著者の繊細な想像力は、例外的に働いていないようにみえる。
そのような他者の出現によって生じる惑乱(闘争と呼んでもいい場合もあるだろう)だけは、あらかじめその可能性が忌避され、排除されているように思われる。
そして、そのようにして維持される秩序や空間の同質性というものは、きわめて閉鎖的な政治性を帯びているであろうというのが、僕の推定である。
その意味で、この本は、やはり90年代以後の日本の言論空間の性格を、きわめてよく体現したものだとは言えるだろう。


たとえば著者は、田中美津の思想のあり方を、「悪からの遡及法」と名付け(田中自身は、悪という言葉は使っていないとのことだが)、そこからみずからの倫理学と「生命学」のあり方を、次のように記述する。

「悪ではないもの」の内容を記述して「そのように行動せよ!」と指令する倫理学ではなく、「悪」を背負った者同士が、みずからの存在を自己肯定しつつ、どのようにして「悪ではないもの」をめざして歩んでいけるのかを、とり乱しと出会いのプロセスのなかで学び合い、伝達し合ってゆく営み。(p248)

ここを読んでいて思ったのは、自分の中に悪が存在することを認めるところから出発するのはよいが、そうした人たちは、なぜ「悪ではないもの」を目指すような方向に進むのか、という疑問である。
そうした方向づけは、著者のいう「生命」のプロセスの内部からは、基本的に出てこないはずではないだろうか。
「悪」を背負った者同士の自己肯定が、悪の増殖や死滅ではなく、「悪ではないもの」を目指すことがあるとすれば、それは、そのような方向づけ、つまり「規範」の力が働いたからであり、それは「生命」が、外部の力に支えられて存在することを受け入れたということだろうと思う。
この「外部」を、「言語」とか「歴史」と呼んでもいいかもしれない。ともかく、想像的な同一性を越えるようなものの存在を受け入れることによって、「倫理」というものは生じるはずなのだ。
そうした契機を欠いた、つまり「規範」から切り離されて自己のなかに閉じこもった「生命」の像というのは、生命の捉え方そのものとしても不十分なのではないかと、僕には思える。