海老坂武『サルトル』

岩波新書から出た海老坂武著『サルトル』という本を読んでみた。
サルトルとフランスの共産党との関係に興味があって、そのことが詳しく書いてありそうだったので読むことにしたのだが、読んでるうちにそのことへの関心は消えてしまった。
この本は、著者がサルトルの思想や文学と「素手で」ぶつかってきた自分の体験を振り返って描くことをとおして、サルトルというアクの強い人間の生き様と思想・文学・政治参加のあり方を浮き彫りにした、といった内容で、ごつごつした面白い感じの教養書になっている。
読みながらこの海老坂という人のことを、まだ若い人と思っていたが、最後に著者紹介を見てみるともう70歳をすぎている方なので驚いた。このことに、サルトルという人の思想や文学の魅力と毒とが、よく示されているのだと思う。なかなか攻撃的な本である。


ぼくはサルトルの書いたものをほとんど読んでいないので、そのことについてはあまり書けないが、本書のなかで印象に残ったことをひとつだけあげておく。
小説『嘔吐』について書かれた部分のなかで、著者は、サルトルが「実存すること」を「負けること」であるととらえながら、芸術創造においてその「負けること」がひそかに「勝つこと」に転じることを狙っていたのではないか、それは「実存すること」の倫理とは逆のものであるはずの「在ること」をひそかに目指していたということではないのか、という問いを投げているように思う。
これは、反権力の革命や暴動が、実際には権力の奪取・確立を帰結してしまうということにつながる問いだと思うけど、面白いのは、それに関して次のように書かれているくだりだ。

『まず、「負ける(失う)」だが、どうやら勝ち負けの発想は、深いところでサルトルの事物と人間についてのヴィジョンと結びついている。(中略)「負けることにおいて勝つ」は彼の倫理思想の中心に置かれることになる。』(p37)


『人間は何をしようと「在ること」への欲望から自由ではなく、「在ること」の倫理から「実存すること」の倫理への移行は容易ではないということになる。』(同上)


サルトルが生涯をとおして、「勝ち負けの発想」にこだわり、とらわれ続けた人だったらしいということは、この本を読んでいると分かる。
「負けることにおいて勝つ」は、サルトルとジュネを結びつけたものだった、ということもこの本には書いてあるが、この倫理が、両者においてまったく同じことを意味していたのかどうかは分からない。でも、明らかに共通する部分があったんだろう。
分かりやすくいうと、サルトルは、度し難いほどの負けず嫌いだったということだ。そこにサルトルの限界があり、(ハイデッガー流に言うと)ほぼ同じ意味だが本質と魅力もあったのだろう、と思う。
「負けることにおいて」といいながら、実際にはこの人は「勝つこと」にこだわらざるをえなかった。でも、その理由は、「勝つこと」、そのために「闘うこと」によってしか自由を獲得できないという現実が、目の前にあったからだろう。この現実から目をそむけることを拒み通したという点に、サルトルの偉さがあったのだと思う。
すごい魅力のある人だと思うが、こういう人が近くにいると、周りの人間は不安で仕方がないだろう。そして、妙なコミカルさがあるものだ。


サルトルの、この本質的な矛盾については、終わりの方でも触れられている。
それは晩年、革命集団における「恐怖」(暴力)と「友愛」とが切り離せるかという問題について、サルトルがついに明確な答えを出さなかった、というくだりだ。

友愛―恐怖を切り離すためには、集団という考え方そのものを放棄する必要があるだろう。グリーンピースの並存のような人間関係の分散を、<集列>としての人間の現状を、そのまま是認しなければならないだろう。革命の観念はおろか、闘いの観念さえも放棄しなければならない。レヴィの出してきたプラグマティックな提案(友愛―恐怖という考え方の必然性の放棄)に、簡単に首をタテに振るわけにはいかないのだ。(p171)


ぼくが思うに、サルトルが「勝つこと」にこだわった理由の核心は、それが人と人との結びつきの可能性に関わるものだったからだ。
集団が「恐怖」という性質を持ってしまうのは、組織論的な要請によるのではない。現実の社会制度が有形・無形に作り上げている壁を突き破って、人間同士がほんとうにつながろうとすれば、「友愛」は「力」として存在せざるをえない。この「力」を「暴力」からはっきり分かつことはほとんど不可能だ。そういうことではないかと思う。
グリーンピースの並存のような人間関係の分散』こそ、サルトルがもっとも憎んだものであり、それはたとえば多文化主義的なモザイク社会とか、ミクロ権力論といった意匠をとってあらわれるのだが、要するに「力」を人間から奪うこと、人をさまざまな見えない「壁」のなかに閉じ込めるものだと、サルトルには思えた。
引用した文章は、ぼくにはそう読める。
この憎悪や憤りと、逡巡とを、この本の著者も共有しているということなのだろう。


愛は攻撃的であり、荒々しい。愛は力によってしか実現されず、解放されない。
これがサルトルが、(最後には滑稽なまでに)荒々しくあり続けた理由だろう。それがかりに自分や他人を傷つけるものだったとしても、愛にそのような必然性(不可避性)を強いたのは社会の方であり、彼はただその現実からあくまで目をそらそうとしなかった、というだけのことなのだ。

サルトル―「人間」の思想の可能性 (岩波新書 新赤版 (948))

サルトル―「人間」の思想の可能性 (岩波新書 新赤版 (948))