可視化されるべき暴力

きのう書いたことについて、もう少し詳しく書いてみる。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090514/p2


この問題をめぐっては、二つの暴力を考えることが出来る。


A  (仮定だが)何百万かの人が収容所に入れられたり、貧困や飢餓や人権の剥奪に苦しんでいるという暴力。


B   われわれが、朝鮮の人々の多くが精神的に依拠しているであろう(これも、どの程度かは仮定だ)体制と国家のあり方を否定し、それを奪うという暴力。


ぼくが言いたいのは、この二つのうち、Bの方の暴力性があまりにも低く見積もられている、ということだ。
おそらくそのことが、Aの暴力への認識から、そのリアリティを奪ってもいる。というのは、Bの不可視化という現象は、Aの暴力を考えるにあたって、この暴力(A)を遂行している当事者がわれわれ自身でもあるということの認識の希薄さとつながっているからだ。


じつはBの暴力は、われわれが過去においても現在においても行使しているもの、少なくともその行使を容認しつづけているものであって、そのひとつの結果としてAが生じているという側面が大きい。
すると、この根本的であるBの暴力をやめないままで、それどころか無自覚なままにそれを徹底させながら、Aの暴力を解消するということが、可能であろうか。
ぼくには、この力学のなかで体制が打倒された後に生じる、あの国の現実が、多くの民衆にとって、現在よりもマシなものであるとは、ほとんど考えられないのだ。


無論そのことは、現在苦しんでいる、数百万かそれ以上の人たちを、事実上見捨てる選択をぼくがすることを、免罪するものでは全くないが。


Bの可視化という課題は、われわれの社会の質に関わる。
他ならぬこのわれわれの社会が、朝鮮の何百万の人を死に追いやってきたし、今も見殺しにし続けているのだ。
われわれは、まずわれわれの社会に内在する、この(見殺しの)暴力の体質を告発して変えることから始めなければならない。
少なくとも、そのことを常にしなくてはならない。
この暴力の構造の再生産に、歯止めをかけるべきなのだ。
それは、われわれ自身をめぐる課題である。