lmnopqrstuさんの批判に答える(末尾追記)

詳細な批判をありがとうございます。

Arisan氏の「金光翔さんの記事を読んで」を批判する

http://d.hatena.ne.jp/lmnopqrstu/20090325/1237935617


まずはじめに言っておきたいが、はじめの方に、

そんな一般的過ぎることを金光翔氏に諭してどうするのか?


とあるけれども、ぼくは金光翔氏の文章に対して自分の感想と見解を述べ、あえて言えば批判を加えただけであって、決して「諭した」つもりはない。
事実上そうなっているではないかというのが、ぼくへの批判の趣旨かもしれないが、それはそれとして、ぼくの意図はご理解いただきたい。


さて、言及されているぼくの文章の箇所についてだが、論が一般的であって何も言っていないに等しいとか、それが植民地主義の発想に近似しているという批判は、たしかにそうした点が自分の考えや文のなかにあるかもしれないので、批判として受けとめておく。
ただどうも、書いておられることで、ぼくとは考えの違うところがある。
まず、

3の第二文の冒頭をみてほしい*3。「自己決定権を認めたとしても」とある。一般論には飽きたので具体的に問うてみよう。この「自己決定権を認め」る主体は誰なのか? 日本人なのか? 同じく3の第二文で「免罪される、あるいは不問にされるということはない」と言われるとき、免罪しない、不問にしない主体は誰なのか?日本人なのか? 3の最後の文「妥当な批判が向けられるべき」も同様だ。誰が批判を行うのか? 最後の4は、再び「共にそれぞれ尊重」という一般的原則論である。


正直、金光翔氏が用いている「自己決定権」という語への理解が曖昧・不十分なまま、批判的な意見を書いてしまったことへの反省があるのだが、それでも自分の批判の趣旨は正しいと思っている。
『「自己決定権を認め」る主体は誰なのか?』という問い、『免罪しない、不問にしない主体は誰なのか?』という問い、また『「妥当な批判が向けられるべき」』という場合の『誰が批判を行うのか?』という問いは、ぼくから見れば全て無意味である。
これはまさに「一般的」な論理を述べ、一般的な論理において批判を書いたものだからである。故に、誰であるかという問いは意味を持たないと考えるのだが、仮に(日本人である)ぼく自身であると考えていただいてもかまわない。


そのうえで、『そんな一般的過ぎることを金光翔氏に諭してどうするのか?』という疑問に対しては、この一般的な論理の確認を、金光翔氏だけでなく、自分を含めたブログの読者全員と共有するためにここに書いたのである、と答えておく。


次に、

第二に、(にもかかわらず)一方的に、個人としての在日朝鮮人と集団としての在日朝鮮人の(間に発生する)矛盾のみが俎上にのせられている(3の第三文は氏の懸念の所在を明らかにしている)。一言で言えば、在日朝鮮人(の矛盾)だけが舞台に登場して脚光をあび、日本人は一般的原則論の陰に隠れてまったく顔を出さない(どこにいるかまるでわからない)。


これはつまり、書き手としてのぼくの姿が見えない、隠れているという趣旨であろう。
そのことについては、当たっている面があるかもしれない。今後反省したいところである。
だが言うまでもなく、集団と個人との矛盾というのは、誰にでも、どこにでも起こりうる事で、そういう事柄の一般的な側面について、ここでは(文脈に沿いながら)書いているのである。
一般的原則論を書いている(それしか書いていない)ことは事実だし、書き手であるぼく自身が「陰に隠れてまったく顔を出さない」のも事実かも知れぬ。その批判は受けとめる。
だがだからといって、「一般的原則論」の有効性と必要性が減じることはない。
植民地主義的な論理や心性がそれを利用するなら、それはそうした論理や心性が悪いだけである。

だがそもそも日本において、個人としての在日朝鮮人と集団としての在日朝鮮人の間に生じる矛盾が、日本人のあり方と切り離され、具体的に問われうる場面が存在するだろうか。このように問題が提出されること自体在日朝鮮人問題の隠蔽(への加担)ではないだろうか。たとえばアイヌ民族でもいい。この日本で、個人としてのアイヌ民族と集団としてのアイヌ民族の間に矛盾が生じるとき、その矛盾が日本人(日本社会)のあり方と無関係に問われうるだろうか。ほとんどのケースにおいてそれは日本人(社会)の(歴史的な)あり方と密接に関係しているのではないだろうか。


無関係に問われうる場面が存在しないということ、ほとんどのケースにおいて密接に関係しているということは、おそらくそうであろうと思うけれども、同時に全てが「日本人のあり方」とか歴史性との関係に還元されるというわけではないと思うのである。
「日本人のあり方」や歴史的・政治的な場のなかで、事柄(集団と個人との矛盾など)を捉えていくことは、もちろん必要なのだ。だが、それで全てが済むということではない。


たしかに現在の日本の社会では、在日朝鮮人の自己決定権は十分に認められていない(侵害されている)から、「集団・組織と個人」との矛盾を在日朝鮮人の社会に関して論じることは、悪しき介入、事実上の権利の侵害に通じかねない、ということは分かる。
だが、書き手であるぼくの属性がなんであろうと、こうした矛盾の中で生じる暴力や被害がありうるということは事実であり、そのことへの批判がlmnopqrstu氏が危惧するような「在日朝鮮人問題の隠蔽(への加担)」につながるのではなく、むしろこの問題の全面的な表面化、在日朝鮮人のみならずむしろ日本人にとっても、ありうべき真の解放につながるという道筋が、ぼくはあるはずだと思うのである。

だとすれば、このような、日本人が不問にされる抽象的な一般論を駆使してまで、氏が、その記事の後半から最後にかけて(やんわりと釘をさしておくように)(金光翔氏に)「批判」しておいたのは何故だろうか。


一般論云々のことについては、もう十分述べた。
以下出てくる論点についても、大体もう返答したと思うが、もう少し。
まず、(本来なら日本政府が)「援助すべき」ところであるというぼくの主張が、「一方的で対等でない」という批判は、当たらない。
援助するのは、誰かが可愛そうだから同情して行うのではなく、当然するべきであると思うから、それを申し出るのだからである。つまり援助という行為は、まず専ら援助する側にとってこそ必要なことなのである。
「迫害をやめる」ということについても、同様に考える。


最後に、

在日朝鮮人の自己決定権で何を想像しているのか知らないが、具体性を欠いた一般論であってもとりあえず一言釘をさしておくに値するほど、危険な何かを想像しているのだろうか。


金光翔氏は、「集団的な自己決定権」という言葉を用いていないので、勝手にこういう言葉に変えてしまったのは、よくなかったと思う。
個人の自己決定権も、集団としての自己決定権も、ときには不可分のものとして存在するだろう。もちろんそれらは(一般論としても)尊重されるべきである。
そして、それが十分に尊重されない社会であるというのが、日本の現実だ。
金光翔氏の論の核心は、何よりそのことの訴えであったと思う。それを十分に読みとれていなかったことは、大いに反省する。


だがまた、「自己決定権」が十分に確立されたとしても、それだけで我々が生きていることへの侵害や束縛が消えるわけではない。
「自己決定権」が、(たとえば)集団による暴力や圧迫の正当化の論理にも転用されうることは、明らかであると考える。
こうした観点からの批判もまた、常に必要だ。
今後もそれを、深めていきたい(批判を下さる方々への敬意と共に)。



追記:「集団的な」と限定を付けない「自己決定権」一般についても、当然暴力性をはらみうるものだということがいえる。
「自己決定権」とは、その言葉どおり、自己が自己のことを決定する権利ということであろう。すると、「決定する自己」と「決定される自己」とに自分が二重化され、前者が後者を決めてしまうという構図になる。
この二重化自体、形式的・便宜的なものだと考えられるから、当然ここに齟齬が生じうる。こういうことで、「決定される自己」というよりも、生きている自分そのものが圧迫や侵害を受ける、という可能性は想定できるだろう。
もちろん、こういったことは、「日本社会において在日朝鮮人の自己決定権が否定されている」という暴力から見れば「小さな暴力」と呼べるかもしれない。
だがそのことは、「大きな暴力」の解消によって「小さな暴力」も解消される、ということを意味しはしない。むしろ「小さな暴力」の問題の隠蔽こそが、「大きな暴力」の問題の解決を遠ざけている、という見方も出来るのではないか?
とりあえず、このようにだけ言っておく。