続・『無能力批評』論(性愛と暴力)

無能力批評―労働と生存のエチカ

無能力批評―労働と生存のエチカ


同書のうち、「「男性弱者」と内なるモテ幻想」という文章について、感想を書きます。引用文に付されたページ数は、同書のページ付けを示します。(末尾に追記あり)

性暴力には通常の物理的な暴力よりも、一層おぞましい過剰さがある(と、とりあえず言っておく。)(中略)むしろ、その人をかけがえのないひとりの人間と見るからこそ、その性的な核を破壊し蹂躙したい。そんなおぞましさの方へと魅惑されていく傾向。それは一部の性犯罪者のみならず、ぼくたちの、このぼくの中にもある。しかもそれは、フロイト死の欲動をおそらくそのように考えたように、不可避であるばかりか、たんに倫理的に否定し尽くせないもの、いや否定してはいけないものとしてある――それが消えれば人間が人間でなくなるもの、邪悪ではあるが消してはならないもの、として。(p312)


はじめに書いておきたいが、ぼく自身、(ある種の)性暴力を他人に行使したことはあるし、それ以外の弱い者に対する(虐待的な)暴力や、さまざまの暴力を振るったこともある。
その経験から言うと、暴力の過剰さと、性欲や性愛を結びつける特権的なものはなにもないと思う。つまり、性暴力が、暴力のなかで(とりわけ実存的な意味で)何か特別なものだとは思わない。
性暴力が、杉田さんが言うように、フロイトの言う「死の欲動」に関わっているとしても、「死の欲動」は、他の全ての暴力(の過剰)にも同様に関わっているのだろう。
人は、愛があっても、愛がなくても、過剰な暴力を振るうことがある。
その大きな理由は、杉田さんが書くような、心の「空洞」のようなものかもしれないが、分からない。ただ、いずれにせよ、暴力が性愛とだけ特に結びついていると考える根拠は、思い当たらない。
両者が不可分であるにせよ、暴力は性愛のないところでも暴走するし、逆に性愛(愛)は暴力や何らかの実存的な感覚から離れても働きうるものではないか。
そういうふうに思う。


一口に言って、杉田さんの「愛」に対するこだわりが、ぼくにはよく理解できないのだ。
杉田さんが、この『無能力批評』のなかで最も強調しているテーマは「敵対性」の明確化ということだろうが、そのことは「愛」ということ、つまり不可避な敵対を突き詰めていったところにのみ、何らかの解決や和解が見出せるはずだという信念と結びついている。それは、信念なのか、願いなのか。
「敵対性」を突き詰めないことは、「愛」を信じないことになる。だから、「愛」の激しさによって、杉田さんは「敵対性」を露呈させ、自分自身を、とくに集団的な規定に関わる(つまり政治的な)位置づけをなされた自分というものを、相手にぶつけていこうとする。
ぼくが理解しがたいのは、(「政治」は別にして)この「愛」なのである。


それは、杉田さんの「生存的貧困」(p199)というものと、ぼくが無縁だからであろうか?
それとも、そういうものをぼくも抱えているが、抑圧してるからだろうか?
自分も性暴力に限らず、過剰な暴力を振るってきたと、上に書いたわけだから、実存的な欠如の感覚がそうした暴力の源だとすると、ぼくにも、そういう欠如はあるのかも知れない。
だから、「生存的貧困」ということ、別の言葉で言えば、存在の肯定とか承認の欠如といったことが、自分にとって他人事と言えるのかどうかは、正直よく分からない。大きな空洞が、ぼくの心のなかにも空いてるが、そのことを否認しているだけかもしれない。


そこで、とりあえず、心のなかに空いた「空洞」というものが、暴力の過剰に関係しているということは、認めることができるかもしれない。
だとすると、それはたしかに、「愛」ということには関わるだろう。「空洞」をどうにかして埋めていこうとする気持ちは、「愛」と名づけることが妥当に思えるからだ。またそのあらわれが、何かの形で暴力に近接しているということも、言えそうな気がする。
だから、存在の肯定・承認(の欠如)、暴力の過剰、愛と敵対性、これらが深く結びついているということは、言えるかもしれない。どうも言えそうだ。


だが、性愛ということ、とりわけ性愛のルサンチマンに、それらが特別に深く関わっているとは思えない。
性愛のルサンチマンについて杉田さんは、

「性愛的挫折(恋愛未経験/失恋を含む)がトラウマ化し、人格の重要な一部となり、かつ、非モテ意識に苦しめられ続けること」(p301)


を「非モテ3」ということの定義として語り、存在の肯定・承認という実存的なレベルと、「非モテ」という性愛のレベルとが不可分に結びついている場合があることを強調する。
だが、「性愛的挫折」というものの実存的な重さ*1は認めるにしても、それが「非モテ意識」というものに結びつくということが、どうしても納得できないのである。
だから、「内なるモテ意識」についての、杉田さんのここでの論述は、実感としてはぼくにも思い当たる節が大いにあるとはいえ、論理的には混乱したものとしか思えない。


性愛的な肯定に関して杉田さんは、カインとアベルの話を引いて、

肯定されない側の男性たちは、ひたすら現実の痛さを認識し、明らめ=諦め続けるしかないのか?(p308)


と書き、その「理不尽な拒絶と選別」の継続が暴力の噴出につながる恐れを示唆するのだが、この場合の「肯定される」(誰によってか?)ということが、どういうことを指してるのか、よく分からないのだ。
このように語ることで、杉田さんは、「非モテ」という性愛における「男性弱者」(という集団)のルサンチマンの増大が、「死の欲動」や「生存的貧困」に起因する不可避の出来事であり、そこでの権利主張(というより、敵対性の明確化)が社会にとっての一般的な正当性と必要性(暴力の噴出を回避する方途としての)を持つものであるかのように言おうとしているみたいだ。
この論理、この「政治化」には無理がある。


非モテ」と呼ばれる、性愛におけるルサンチマンの「痛み」が、その人の存在や関係において、決して軽視できるようなものではないことは、よく知っている。
だがそうであっても、ルサンチマンの問題と、存在の肯定・承認ということとは、やはり混同してはいけないだろう。まして、ルサンチマンの増大を、「暴力の噴出・過剰」の正当な理由であるかのように見なすわけにはいかない。
むしろ問題なのは、杉田さんの論では、(例えば性愛における)ルサンチマンの増大が暴力の増幅・暴発を生み出す過程が、なにか「自然」なもののように考えられていることであろう。
ルサンチマンと暴力との結びつきの回路を、批判的に見出すことこそが、もっとも大事ではないか。


そして、性愛(ルサンチマンも含めて)に関して言うなら、そこには、人間の実存や欲動とか、「愛」や暴力といったことには還元できないような要素が含まれているのではないだろうか。
性愛の体験が、どれほど深い影響を個人の生にもたらすとしても、性愛はいつもどこか、人間の生存以上の要素をはらんでいるとは言えないか。
むしろそこに、希望が見出せないかと思う。


追記: 以上のように書いたが、その後よく考えると、『ルサンチマンの問題と、存在の肯定・承認ということとは、やはり混同してはいけないだろう。』という部分は、断定できないという気がしてきた。
少なくとも、杉田さんは、そこが重なっていると感じてると言ってるわけだし。ここは、保留します。
両者が重なることがあるかも知れないが、それが必然的だとは考えにくい、ということ。それから、承認の要請ということと暴力の抑止の問題とは、やはり結びつけられないのではないか。とりあえず、そういう風に思ってます。

*1:だが、誰にとっても、というわけではあるまい。むしろ、存在のレベルでの欠如の如何が、その軽重を左右するのではないか?