『当事者主権』を読む

当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))

当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))

「当事者」というのはよく聞く言葉だが、要するにある事柄に関わっている本人という意味のようである。
家族とか行政とか、周りで支えたり関与している人とか組織や団体とか、あるいは医者や学者や法律家などの専門家とか、そういった人たちに意志や意見を代弁されたり、代表されて何かを決定され言いなりになるのでなく、本人たちが自分たち自身で意思表示をして、自分たちが置かれている状況を変え、広く社会全体を変えることにも関与していこうという社会運動のスタイル、それが「当事者主権」という語の意味するところらしいのである。

それはなぜ必要とされるか

なぜそうする必要があるのかというと、ひとつには「当事者のニーズは当事者が一番よく知っている」から、また「当事者にしか分からないことがある」からである。たしかに、この点は非常に重要だろう。
当事者のニーズをもっともよく把握しているのは、当事者自身なのだから、当事者が行政との交渉を行い、カウンセリングの担い手になったりするのは、理にかなった話だといえる。
これに関連して、本書のなかでは、障害者運動における障害者同士の「ピアカウンセリング」の重要性が詳しく説かれている。


もうひとつは、「代弁」や「代表」によって、当事者の利益や意志が損なわれる場合が生じるからだ。
たとえば、家族と本人との利害が厳しく対立するということは、患者や障害者などの場合にはおうおうにして生じることで、そのとき本人(当事者)の意見が尊重されず家族の意見だけが重視されると、当事者自身の権利や利益が損なわれることになる。
また、行政主導の従来の福祉政策が、土建業界などの利権にも結びついた「ハコもの行政」としての「施設主義」を横行させて、障害を持つ当事者に地域や社会から隔離された生を強いたり、当事者が置かれている現状を無視した法案の成立につながったりしてきた事実がある。
さらに、政党や組合などの大きな組織による「代表型」の運動によっても、当事者の意志が十分に汲み取られなかったり、組織の利益が優先されたり、ということがあったであろう。
こうした、当事者が関与せず、当事者以外によって「代弁」「代表」されることによって生じる、当事者の不利益や権利の侵害を阻止する、という意味が「当事者主権」の主張にはある。


さらに三つ目の理由として、当事者自身の「エンパワメント」(力をつけ、自信を深めること)という側面がある。たとえば、本書で多く実例が紹介されている障害者運動においても、当事者である障害者は従来、社会のなかで「庇護」や「代弁」「代行」の対象とみなされ扱われることによって、自信を失い、あるいは介助や介護を受けることに「負い目」を感じ、自立する力のない弱い存在として自分を考えるようになりがちだったという。
こうした、強いられた精神的な状況から脱却し、社会のなかで、生活だけでなく、政治的にも経済的にも自立して生き、むしろ社会の側を変えていく力を持った存在として自分を自覚することを可能にする方途としても、「当事者主権」をとらえることができるようだ。

事業体としての運動

本書で、当事者運動の大きな成功例として、その実践と歴史が詳しく紹介されているのは、障害者による自立生活運動である。
それは、専門家や行政によるのでない、自分たち自身の間での体験や知識の伝達を行い、互いを勇気づけ支えあうということを実現してきた。
また、自分たちのニーズをもっともよく把握している当事者自身による行政との交渉は、その連帯と戦略の緻密さによって多くの実質的な成果をあげてきた。
そして、この運動の大きな特徴は、事業体として実績をあげ、それが運動の発展とバランスよく結びついてきた、という点にある。これは、日本の社会運動ではたいへん珍しいことだろう。
本書では、これらの事柄に関して、この運動の成果と、実践的な指針のようなものが詳しく書かれているので、NPOとか社会福祉や社会運動的なことに関心のある人には、必読といっていいものだと思う。



三つ目に書いた当事者運動の「事業体」としての側面ということは、社会のなかでの経済的な「自立」の概念とも関連して、重要な点だと思うので、少し詳しくふれておきたい。
障害者の自立生活運動では、福祉サービスの有償化ということには、障害をもつ人たちが日常感じている「負い目」を返済する、という意味あいがあったという。

ボランティアの介助に頼って生きていた障害者は、毎日ありがとう、ごめんなさい、すみませんと言いつづけてきた。このようにしても、三六五日の早朝七時からの介助者を毎晩電話をかけつづけて探し、心の休まることはなかった。せめてトイレ、入浴、寝返りなどの生活の基礎的な部分では、介助者と対等の関係になって、その日に生まれた負債をその日のうちに介助料というかたちで返済したい。そして、ありがとう、ごめんなさいと、何か自分が悪いことでもしたように暮らしたくはないという強い意向があった。(p33)


福祉において、サービスを受ける側(当事者)と、サービスを提供する側(介助者)との間に「対等な人間関係」が成立しがたいという実感があり、有償化によってそれを解消するという方法が求められた。
このような「負い目」を、介助を受ける人に感じさせるもの、社会的な圧力というものがあることについては、別によくかんがえる必要があるだろう。
ともかくここでは、この「負い目」を解消して対等な関係を実現する手段として、サービスの有償化という手段が選ばれることになったわけだ。
こうして、自立生活センターという団体は、障害者自身がサービスの担い手でもあるという、特異な方向を打ち出していくことになった。

自立生活センターは社会に障害者の要求を訴える運動体であるだけでなく、その要求をみずから満たす事業体としての性格も持っているのが、当事者運動のなかでもユニークなところであろう。(p34)


では、このような運動のあり方というのは、当事者運動にとっては本質的でないものだといってよいのだろうか。
たしかに、「当事者主権」、当事者による運動ということと、運動団体が事業体としても成立し、またそれが運動体としてのあり方ともバランスよく機能するということは、必ず結びつくことではない。
「社会運動が、金儲けという形で市場原理に迎合してもいいのか」という批判も、いまなおあるだろう。
だが逆に、運動団体が事業体として成立しているということの意味は、それが資本主義の社会のなかで経済的な自立を実現し適合しているという意味あいだけに還元されるわけでもない。
その理由のひとつは、事業体としての成功には、社会のなかで力の弱い者と位置づけられて自信をもてないできた当事者たちをエンパワメントするという意味あいがあることである。
さらに、もっと根本的なこととして、次のような歴史的な事情があると考えられる。

その歴史的・社会的背景

70年代末から英・米・日を中心にはじまった行政改革の流れは、これまで国や自治体が行政の仕事として行なってきた福祉などの事業を、民間に肩代わりさせるものでもあった。これは直接的には市場原理にゆだねるということだが、同時に社会運動団体がその役割を担うということにもなったわけで、NGONPOがこの時期から法的・制度的な支援を受けて花盛りとなっていくのは、そうした行政側の方針と合致したからでもある。
一方で、この変革の流れ(サッチャーイズム)は、官公労のような大規模な労働組合や左翼政党を弱体化させたり、もっと根本的に広範な社会的連帯の基盤となるような社会構造を破壊するものでもあったので、社会運動そのものの質も変わらざるをえなかった。
つまり、代表制をとるような旧来型の大規模な社会運動の求心力が落ちて「当事者による運動」のリアリティーが急速に浮上するとともに、組合などの資金力に頼っていた財政上の問題を、これらの新しい小規模な運動団体は自ら抱えざるをえなくなったわけだ。
NPO型の「当事者による運動」が、事業体という形で自ら財政的基盤の確保に動かざるをえないこと、またそうした自らのあり方と運動体としてのあり方との統合や整合性に自覚的であらざるをえないのは、こうした歴史的条件にもとづく。
じっさい、今日では、宗教団体や企業に依存するのでなかったら、社会運動は事業展開や助成金などによって自ら財政の基盤を確保するほかに、生き残るすべがなくなってきている。


事業体としての道を模索するということ、またそうした道をとおして当事者の社会のなかでのエンパワメントを実現していくということは、もちろん市場原理に適合しようとすることを一義的に意味するわけではない。
それがオルタナティブな道の開拓につながるという方向はもちろんありうる。じっさい、本書で強調されているのも、当事者運動による事業は、営利企業では達成できないニーズを満たし、社会的使命を果たすものである、ということだ。
だがそれでも、今日のこうした運動団体やそこで活動する人たちが、これまでの運動に比べて、資本主義のシステムのなかで生きているという現実を強く意識せざるをえなくなっていることはたしかだろう。

「当事者による運動」の重要な意義

以上みてきたように、「当事者による運動」が大きくクローズアップされるようになったのには、それなりの歴史的・社会的な背景があった。
それを踏まえたうえで、「当事者による運動」が台頭し重視されるようになったことの、もっとも意義深い側面はなんだと言えるだろうか。
それは、人は誰もが当事者でありうるということ、また自分を当事者として自覚することによって、社会を変革する力をもちうるということが明らかになってきた点にある、というのが本書の著者たちの主張のようである。

現代社会に必要なのは、個人個人が当事者となり、自分自身の人生に対する主権を行使することではないだろうか。そうすることで、社会は自分たちの望む方向に変わる。障害者は一歩先に自立したが、むしろ多くの非障害者はまだ自立できてはいない。世の中をこんなものさ、と受け入れていれば、自分のニーズにさえ気づかない。そのために、非障害者は当事者にさえなれないのだ。障害者の自立の理念に学んで、変えられないと思っている社会を変えてみようではないか。(p205〜206)


それぞれの社会のなかでの位置(属性)から出発して、というだけなら従来の代表型の社会運動と変わらない。「当事者」という言葉が用いられた理由は、その位置が個人の自覚や行動によって選びとられるものだからだろう。
つまり、個人は「当事者である」という自覚を持つことによって自立した社会的存在、主権者としてエンパワメントされる。
このことがなぜ重要かというと、それがおこなわれる以前においては、当事者たち、つまり社会によって「問題」を抱え込まされた諸個人は、抑圧されて自信を失い、いわば「無力化」された状態の生を強いられているからである。
女性運動の歴史にふれてベティ・フリーダンの名前が出されるのは重要で、この部分を読んだときに「当事者運動」の問題は狭義のマイノリティの問題であるばかりでなく、むしろマジョリティを含めた社会のなかの全ての個人が、どう社会的な「力」を取り戻すかという問題でもあるという、著者たちの視点が見える気がした。
言葉を換えれば、「空虚な主体」を、社会的な連帯の方向に向かってどう充填するか、というテーマではないかと思う。

問題点

だが、上記の205ページの引用文を読んで思うことは、「それぞれの当事者性」という考えが、社会運動の理念としては、やはり弱いのではないか、ということだ。
一口に当事者性といっても、それが連帯を可能にし、社会変革の力として機能しうるのは、そこに集団性が強い磁力として働いている場合に限られる。そして、これはどちらかというと、「属性」の力だろう。
障害者運動が強い力を持ちえたのは、「障害者」という社会によって強いられた属性が、人々を結束させる強い磁力として機能したからである。
そうした磁力が働かないところでは、「それぞれの当事者性」という主張は、非常にミニマムな人間関係の保持ということにしかつながらないのではないか。そこを無理に乗り越えようとすれば、結局はポピュリズム的なやり方か、代表制の復権のような道しか残っていないようにも思える。
じっさい、当事者運動といえども代表制の危険が伴うということは、本書の中でも語られており、運動のあり方、とくに「エンパワメント」ということが、本来の意味をこえて個人を集団の意志に従属させかねない危険があることは、つねに考慮されねばならないだろう。これは、「主権」という言葉がはらむ危険な側面である。
それを回避するような形で、それぞれの当事者性への自覚を、社会全体を変えていくような力へとつなげていく道はあるだろうか。


本書の中で何度か示される、「差別においては誰もが非当事者ではありえない」という構造的な認識は、間違いではない。そこから出発するなら、各人の当事者性の自覚を社会全体の問題へとつなげていくことは可能だと思える。
だが今日の社会では、この認識が人を動かす力を持つためには、何か別の技術が必要ではないだろうか。それは、「それぞれの当事者性」からはじめて、「それぞれの当事者性」を乗り越えるための技術といっていいだろう。
そのことを考えるうえで、ケア労働の専門性に関して書かれた次の一節は、たいへん示唆的ではないかと思う。

主として経験と学習からヘルパーは専門性を身につけていくが、この専門性の核心にあるのは、当事者ニーズを理解するコミュニケーション能力である。そしてこのコミュニケーション能力は、必ずしも言語的な能力に限らない。(中略)
 当事者には当事者の数だけ、異なったニーズがある。どのようなニーズにも対応できる柔軟さや、相手のニーズを読みとる力、そして対人関係の適切な距離のとり方や、無理な要求や無理な処遇へのきっぱりした対応など、人間関係の基本ともいうべき力量がケアワーカーには必要とされる。そしてその能力は、学習によって伝達され、経験によって訓練されることが可能である。(p182〜183)


この最後の一行は、多くの希望と可能性を含んでいるだろう。
その意味のひとつは、こうした「力」の獲得の方向には、「主権」の論理を越える可能性があるということである。