シュトレーク『資本主義はどう終わるのか』

新型コロナで緊急事態宣言が出された時、図書館が閉館に入るというので、急遽近傍の図書館に行って何冊か借りたうちの一冊。そろそろ返すことになりそうなので、その前にここにメモをとっておこう。

この本は、2008年のリーマンショックをうけて書かれた幾つかの論考からなっている。時系列的には、序文の「資本主義―その死と来世」が最後に書かれてると思うのだが、ここに資本主義の未来(死と来世)についての著者の考えが集約して述べられている。なので、ここを中心に引用する。

資本主義の死と言っても、シュトレークが描くのは、資本主義の本性によって「社会」が崩壊した後の、暗澹たる未来像である。だから正確には、「資本主義社会(民主制資本主義)の死」と呼ぶべきかと思う。

 

 

『現在進行中の最終的危機を経て資本主義に代わるのは、社会主義やその他の明確な社会秩序ではなく、長い空白期間であろう。(中略)空白期間はマクロレベルにおけるシステム統合の破綻を示している。そのマクロレベルの破綻は、ミクロレベルにいる個人を支える制度的基盤や集団的支援の破壊をもたらし、社会生活から秩序を奪い去る。安全と安定は最小限になり、諸個人はそれぞれ勝手に社会を構成するようになる。(p24)』

 

 

『つまり資本主義の社会秩序は、別の秩序ではなく無秩序と混乱に取って代わられるのではないか。(中略)その社会では、生活はつねにその場しのぎで、個人は生活構造ではなく生活戦略をもつように強いられる。オリガーキー軍閥には豊かな機会が提供され、その他の者には不安と不確実性が押しつけられる。ある意味では、それは五世紀にはじまり後世に暗黒時代と呼ばれる、中世の長い空白期間に似ている。(p54)』

 

 

オリガーキーという言葉は初めて知ったが、権力者の周りのごく一握りの親密な人々のことをさすようだ。例えば、唐の玄宗皇帝の時代だと、腐敗の象徴として憎悪の的になった楊貴妃とその一族とか、今の言葉でいえば、「お友達」ということである。

著者の描く、そうした社会のあり様(僕らは既によく知ってる気もするが)を、もう少し具体的に見てみよう。

 

 

『制度が社会的行為を規定することができなくなると、社会秩序を維持する役割は文化に求められる。制度が社会秩序を支えられない以上、日常生活の秩序を維持する役割は、マクロからミクロへ移される。つまり、最低限の安定性と確実性を確保する役割、最小限の社会秩序を創造する役割は個人へと移動する。そしてポスト資本主義の空白期間におけるポストソーシャル社会で人々の行動プログラムを支配するのは、次のような新自由主義エートスである。すなわち、競争に勝つための自己啓発、市場に役立つ人材の育成、仕事への情熱的な献身、政府が機能しない社会がもたらすリスクを呆れるほど楽観的に受け入れる態度である。(p56)』

 

 

あれあれ、これほとんど今のことやん。「政府が機能しない社会」って、ほとんど日本の現状そのものだし。米国なんかも大体同様に見える。

そうか、「北斗の拳」じゃないが、資本主義社会はもう死んでいたのだ。今は、実は「来世」だったのだ。

 

 

『秩序崩壊時代の社会生活は必然的に個人主義的である。集団的制度が市場の力に侵食され、アクシデントがいつ起こってもおかしくないにもかかわらず、それを防ぐための集団的組織は失われている。誰もが自分を守ることに汲々とするようになり、社会生活の基本原則は「自助努力」になる。リスクが個人に帰せられることは、その防衛も個人に帰せられることを意味する。そのために競争的努力(ハードワーク)と民間保険、それから興味深いことに家族という前近代的な社会的紐帯が求められる。集団的制度が機能しなくなると、必然的に個人の分断は「下から上へ(ボトムアップ)」と進行、社会構造は「市場」の圧力に適応した「上から下へ(トップダウン)」型になる。そして社会生活は、自分の私的な人間関係にもとづいて(その手段をもっていれば)ネットワークをつくる個人から成り立つようになる。そのような知人関係にもとづくネットワークは、横にひろがる社会構造を生みだす。これは自発的契約に似た関係であり、柔軟だが消滅しやすい。現在の変化する状況でそのネットワークを維持するには、「ネットワーク形成」をしつづけなければならない。そのための理想的なツールが「新しいソーシャルメディア」である。これによって、社会関係にそなわる義務的な形態が自発的形態に、市民共同体がユーザのネットワークに置き換えられ、個人のための社会構造がもたらされることになる。(p58~60)』

 

 

もはや「自分の私的な人間関係」にもとづいたネットワークしか意味をもたないような社会(社会とも呼べないが)、それが現状ということだろう。「新しいソーシャルメディア」はそれに適合的だが、それは義務をともなう社会参加や、市民共同体とは異質であることを、シュトレークは強調する。

これは、政治参加というものの決定的な変容にも関わっており、他の個所では、次のようにも言われている。

 

 

『市民的義務としての政治参加は、高度消費社会の文化において、娯楽としての政治参加に変容したのである。(p155)』

 

 

シュトレークは新左翼の出身のようだが、少なくとも「序文」を書いた時点では、社会運動の力にまったく期待を抱かないようになったようだ。

資本主義だけでなく、社会の力そのものも、すっかり死んだというのが彼の認識なのだろう。

そこが、グレーバーのような人とはまったく違う。

 

 

『その背後には過酷な事実が隠されている。すなわち資本主義の発展は、これまで資本主義そのものに制限を加えて安定させてきた装置のすべてを破壊してしまった、という事実である。(p81)』

 

 

ただ、シュトレークの本領は、その徹底した資本主義経済の分析にあるといえる。それは、マルクスローザ・ルクセンブルグ(『資本蓄積論』)、カール・ポランニーという正統的な線を受け継ぐものだといえるだろう。

利潤を求めて無制限に拡大していく資本主義は、民主主義とは、本来矛盾する、敵対的なものであるというのが、彼の基本認識だ。この立場から、たとえばハーバーマスウォーラーステインのようなシステム(資本主義体制)を肯定するような議論は、はっきりと批判される。

つまり、シュトレークの言う民主主義とは、資本主義体制を補完するようなそれではなく、資本主義の暴力に対抗して、それを抑制するような、いわば「民衆の力」の言い換えなのだ。民主主義というものの持つこの両義性のなかで、たとえば韓国の民主化運動も、ずっと葛藤してきたと言えるだろう。

その(資本主義と民主主義との)矛盾が一時的に蓋をされていた戦後の短い一時期(成長期・福祉国家時代)が破たんした後、その破たんをなんとかして覆い隠そうとしてきた過程として、現代の経済政策の歴史を描き出す。その分析には、教えられるところが非常に多い。たとえば、70年代末ごろから多くの国が抱えるようになった財政赤字の真の原因は、新自由主義者たちが宣伝したように福祉予算の増大や公務員の給料の増加などではなく、グローバル化によって大企業や富裕層が低い税率を求めて国境を越えるという事が起こり、それに対応してそれらへの税率を下げざるを得なくなったことにある、という指摘である。では、そのグローバル化をひき起こしたものとは何かと言えば、果てしない拡大へと突っ走る資本主義の本性に他ならないのだ。

 

 

先に書いたように、シュトレークのこの本は、力づけられるようなものではないが、現状を正確に把握し、なすべきことを考えていく為の土台には、十分なりうるものだと思う。

最後に、暗い未来(現状)への予言の極めつけのような文章を、もう一つ引いておこう。

 

 

『システムの統合性も社会の統合性も、ともに回復不能なほど損傷を受けており、その損傷はこれからもますます広がる一方であるように思われる。もっともこれから起こりそうなことは、小規模・中規模な機能不全がたえず蓄積されていくことである。それらの機能不全は致命的とはいえないにせよ、修復される見込みはまったくない。またそれらの機能不全は蓄積されていくうちに、それは個別的対処の限度を超えることになるだろう。その過程で、システム全体を構成する個々の部分は、しだいに相互間の不一致を示すようになり、あらゆる種類の機能不全が増殖し、予期せぬ結果が広がっていき、しかもそれらの因果関係は把握不能になるだろう。不確実性は高まり、予測能力と統治能力の低下(現在までの数十年の間に進行した)とともに、ありとあらゆる危機―合法性や生産性、あるいはその両方にまたがる危機―が次々と急速な連鎖をともなって生じるだろう。それらの危機に対して、目先のことしか考えていない浅はかな対処が無数に行われるだろうが、それもアノミー的混乱をきたした社会秩序の深い部分から日常的に生じる惨事を前にして、何の効果も上げないだろう。(p82)』

 

 

資本主義はどう終わるのか

資本主義はどう終わるのか