前回の記事への補足

lmnopqrstuさんの質問に答えた前回の記事ですが、言い足りていないところがあったと思うので補足します。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090327/p1


後半の「自己決定権」をめぐる部分です。
ここでは、ぼくが初め金光翔さんの文章を読んで、「自己決定権」の問題を在日朝鮮人の人権の保障にとって最重要なものとして強調することが、場合によっては、集団や組織への参加を通して民族的・政治的な主張を行っていくことと、個人の自由や権利が集団の圧力・暴力から守られるということとの矛盾を引き起こすのではないか、つまり集団の論理によって個人の自由や権利、安全が押し潰される危険が生じるのではないか、という危惧をもったことを書いたと思います。
これは、「自己決定権」というものを集団を作り参加する権利というように狭く捉えた上で(このことを、誤読であったと書きました)、その権利の保障(肯定)こそが、在日朝鮮人の生の(権利の)全体を保障する基礎となる、という考えを金光翔氏がとっておられる、という風に理解したということです。
そして、もしこのような理解が正しいとすると、「自己決定権」という言葉の意味を、「集団・組織を作り、参加する権利」という風に狭く捉えなくても、やはりこれは危険な考え方であると思います。


というのは、こうした考えは、(ここでは「自己決定権」という)ひとつのテーマを追求し解決するということが、生の全体に関わる問題、あらゆる権利や安全の保障を獲得していく上で、最優先のものとされる結果、このテーマを追求して現実の不正を解消するという名の下に、実際には人間の生の全体が毀損される、簡単に言えば、個人なり集団なりの安全や権利が制限されるという結果を招きかねないと思うからです。
前回の記事に書いた「集団・組織」と「個人」の齟齬というのは、その一例にすぎません。
つまり、ぼくの考えでは、もっとも大事なことは、誰であれ人間の生存や生活が不当な暴力を被らない、といったことであるはずなのに、ひとつのテーマだけが他のテーマに優先するばかりか基礎(根拠)をなすものであるかのように追求されるとなると、その基礎的なテーマの追求の名の下に、尊重されるべき他のテーマの侵害が起きかねないであろう。
そうなるとこれは、こうした権利獲得の運動や行動、主張自体が、人間の生に対する一つの悪しき暴力として現われることを意味するだろう。
そのように思うわけです。
これは悪い意味での「原理主義」的な考えの暴力、正確には、原理主義的な考えがもたらす悪い効果、といえるのではないかと考えます。


さて、しかし金光翔氏の文を再読した結果、氏の「自己決定権」に関する主張は、そのようなものとは異なるであろう、つまり「自己決定権を有する存在として扱え」(ぼくは、そのように理解したわけですが)という氏の主張の意図するところは、「自己決定権」を他の権利を制約するような特権的な概念としてとらえているわけではなくて、あらゆる行動を自由になしうる当たり前の人間存在としてわれわれ(在日朝鮮人)を扱え、という意味合いが、専ら込められている。
そうすると、この氏の主張(要求)は、むしろぼくが上で述べた「生の全体」というふうなことに近い。つまり、例えば集団の論理や力に対する個人の自由といったテーマとも、矛盾せず成り立つはずの主張であろうと、考え直したわけです。


この(今ぼくが思っている)意味で、氏の「自己決定権」という言葉を捉えるなら、個人の自由や権利の、集団の論理からの防御というようなことは、ある意味では「自己決定権の肯定」ということのなかに含まれているのであり、個人の自由・権利・安全が、日本国家や日本社会によってはもちろん、在日朝鮮人社会のなかの矛盾が原因となって侵される場合には、それは「自己決定権が損ねられている」ということにもなろうかと思います。
つまり、ぼくが今思っている意味での、氏の「自己決定権」という言葉は、それを解決することが他のあらゆる問題の解決に優先しその基礎となると考えられるドグマのようなものではなく、正当な権利が当たり前に保障されるような存在、一人の人間として自分たちを扱えという素朴な主張の言い換えに近い意味を持つといえる。


そして、もしこの、ぼくの今の解釈が当たっているとするなら、初めに金光翔氏の「自己決定権」という言葉を、たんにドグマとして、つまり原理主義的な主張としてしか捉えられなかった、ぼく自身の偏見が、まず問われるべきであろう。
そのように思っているわけです。