またlmnopqrstuさんの質問へのお答え

http://d.hatena.ne.jp/lmnopqrstu/20090327/1238164168


最後の質問からお答えします。


lmnopqrstuさんの前回の記事に対する返答は、この記事にすでに書きました。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090325/p1
同意できる点、できない点、すでに書いたかと思います。
ぼくの記事に対する誤読があったということは書いていないと思いますし、またそう思ってもいません。
そして、今回のぼくの記事の内容は、あなたの記事とは直接関係ありません。


さて、一番最初の質問ですが、ぼくも、金光翔氏が、『日本人に対して「どうか自分の要求を聞きとって下さい」と頼んだこと、またはそれに類する発言を行ったこと』は、記憶にありません。
しかしぼくは、自分が氏の文章を読み返して、そこに「自分の声を聞き取れ」という要求のようなものがあるのを感じ、それをこれまで聞き逃していたことを申し訳なく思ったわけです。
それが、『ちゃんと聞き取ってあげられなかったことが、何より申し訳ない』という文章になりました。
この言い方は、きっと傲慢に受けとられるでしょうが、そのように思ったことが事実です(この件は、最後にもう一度触れます。)。


その次の質問に関してですが、誰かがぼくの誤読を指摘したということではなく、はじめから誤読しているのではないかと疑ってたということは、今回の記事に書いたはずです。
他の方の言及が、それを再考するヒントになったということはありますが、誤読であったという判断は、まったくぼく一人のものです。
それから、「何が誤読であったか」ということですね。これも一応書いたつもりでいたのですが、詳しく述べてみます。
便宜のために、金光翔さんの文をもう一度引きましょう。

http://watashinim.exblog.jp/9437414/

日本人の(それも左派の)中には、朝鮮総連から被害を受けた在日朝鮮人の声を持ち上げて、朝鮮総連への日本政府の弾圧を正当化・容認するような議論も散見される。そうしたケースで、被害者に対して朝鮮総連の責任が問われるのは当然であるが、そのことと、日本政府が在日朝鮮人の財産権、結社の自由といった基本的人権を否定することとは、次元が全く異なる。そうした議論は、在日朝鮮人の自己決定権の否定が前提となっているのだ。


この文章ですが、ここでは金光翔氏は、次のようなことを言おうとしてるのだろうというのが、今のぼくの解釈です。
つまり、ここにあるような議論(被害者の声の存在を理由にして、総連への弾圧を正当化する論)というものは、在日朝鮮人は自分で自分のことを決められるような存在ではない、そのような存在として社会のなかで認められるべきではないという、日本の国と社会(人々)の間に、意識的・無意識的にある考え(偏見、恐怖心、差別的な思考)から出てくるものである。
根本にあるのが、このような考えであるから、個人の被害を守るためには(結社の自由等の)基本的人権の否定、つまり政府や警察の不当な介入も正当化される、という発想になる。
だが、そもそも在日朝鮮人を、自分たち(日本人)と同じ人間として見ていれば、どんな理由にせよ基本的人権の否定を正当化するような考えが出てくるはずはないし、基本的人権の尊重と、被害を受けたとする人々の救済(被害が事実であるとして、ですが)とは矛盾なく共に行われるはずである。
そうではない議論になっているというのは、こうした論を行う人たちは、在日朝鮮人を、自分たちと対等な人間と考えてはいない、考えようとしていないからである。
そのような趣旨ではないかと思います。


そして、以前には、ぼくがこれをどう「誤読」していたかというと、「自己決定権の否定」ということを、政治的・民族的な組織を作り活動することの自由の制限、という風にのみ理解していたわけです。
つまり、民族的な組織や集団を作って(あるいは参加して)活動することを妨げられている(制限されている)こと、またそのように制限されることが当然な存在であるかのように見なされていることが、在日朝鮮人に対する人権侵害の根本の原因(『根拠』)である。そのように言っていると読んだ。
この解釈だと、民族的な集団や組織を作る権利の獲得・確立が、在日朝鮮人の他のあらゆる基本的人権の保障の根拠である、という風な意味合いになります。
となると、集団の論理の方が、個人の自由や安全を守るということより優先されかねない理屈となり、となると、仮に組織から個人が何らかの被害を被った場合、それを守る力は論理的なものとしては弱くなると考えられる。
そのような恐れがあるから、自己決定権(これを、集団・組織を作る権利の意味に理解したのですが)の否定ということに、問題の根を見出すかのような考えは危険ではないか。
このように思っていたわけです。


しかし、読み直して思ったことは、この「自己決定権」という語は、集団・組織を作る(参加する)権利の意味ではなく、そもそも人が人間として当然肯定されるべき自由に基づいて行う行動(組織への参加・不参加を含めて)の権利という意味、つまりいわば自由な一人前の人間として扱われるということを意味してるのではなかったか、ということでした。
そうであるなら、「組織・集団による被害から個人を守る」ということと、「自己決定権」を認めるということとが、矛盾するはずはありません。
自己決定権をめぐる問題が、他の権利の保障の根拠になるということはないにせよ、自己決定権を否定されない、つまり(政治参加の自由をも保障された)一人の人間として扱われるということと、個人として侵害や被害を受けずに生きるということとは、元来両立することが当然期待されてよいものでしょう。


そうした自己決定権という言葉の、根本的な意味を読みとれていなかったことを、ぼくは「誤読」と言った。
そして、そのように誤読したことを、「申し訳ない」と感じたわけです。
lmnopqrstuさんは、『ちゃんと聞き取ってあげられなかったことが、何より申し訳ない』という、ぼくの文言を、上に書いたような、在日朝鮮人を対等な人間として考えない、差別的な考えの露呈と考えられるかもしれません。
たしかに、自分の中にそのようなものがあることを否定しません。
それに気づかせていただいたことは、あなたに対して感謝します。
しかし、この文言には、人間の人間に対する率直な感情という意味も込めたのです。人間として、一番行うべき努力、言葉ではなくそこに込められた心情を聞こうとする努力を怠っていたという、申し訳なさ。
もちろん、そうであってもお怒りになられるでしょう。
でもこの言葉しか、ぼくのなかから出てくるものはなかったのです。