誤読したこと

この記事の中で、ぼくが言及した金光翔さんの記事の箇所を、もう一度引く。


http://watashinim.exblog.jp/9437414/

日本人の(それも左派の)中には、朝鮮総連から被害を受けた在日朝鮮人の声を持ち上げて、朝鮮総連への日本政府の弾圧を正当化・容認するような議論も散見される。そうしたケースで、被害者に対して朝鮮総連の責任が問われるのは当然であるが、そのことと、日本政府が在日朝鮮人の財産権、結社の自由といった基本的人権を否定することとは、次元が全く異なる。そうした議論は、在日朝鮮人の自己決定権の否定が前提となっているのだ。


ぼくは、あの記事を書いた時、金光翔さんの書いた『そうした議論は、在日朝鮮人の自己決定権の否定が前提となっているのだ。』という言葉の意味合い、とくに「自己決定権」という語の意味するところが、よく分からなかった。また、論の全体のつながりも理解しかねるところがあった。
自分で、ここはよく分からないと考えながら、理解を曖昧なままに、思うところを言葉にした。それをここに書くことで、何か反響があり、正確な理解が出来るかも知れないという思いもあったのだ(toldさん、ありがとう。)。


ところで、そのようにして書いたものが、やはり金光翔さんの文意を読み誤っていたものであった結果、ぼくの記事の内容があたかも自己決定権の制限を必要なものとし、曲解すれば公権力の介入の正当化につながりかねないような文章になったことは事実であり、そのことは詫びなければならない。
金光翔さんが書いている「自己決定権の否定」というのは、そもそも自分の意思で何ごとかを決めて行うという、人間として当たり前のことをなしえないのが当然の存在であるかのように扱われている現実を指していたのだと思う。
だから、人間であるなら当然な扱い方をせよ、そのようなものとして扱え、という要求だけが、この言葉には込められている。
それを、(前段の文章との短絡から)金光翔さんが用いていない「集団的な」という語を加えて「自己決定権」という言葉をとりあげ、「集団・組織」と「個人」との齟齬や矛盾を見ようとしない態度であるかのように解釈したのは、ぼくのひどい誤解であった。
金光翔さんは、こうした齟齬・矛盾に向き合うのは当然のことで、そのためにも、まず「自己決定権を持つ存在として扱え」と、当然思っておられるであろう。


こうしたぼくの誤読は、「植民地主義的な」という批判を受けても、無論のこと仕方がないものである。
だがそれより何より、丁寧な読みが出来ずに誤った解釈をしたこと自体が、金さんに対して、悪かったと思う。
自己決定権を否定するなということ、自己決定権を有するものとして扱えということは、一人の人間としてごく当たり前の、基本的な要求だ。
その要求を、ちゃんと聞き取ってあげられなかったことが、何より申し訳ない。



そのうえで、じつは他のことを書きたかったのだが、今日はこれだけにする。