コミュニティ探究の方向に差異はあるか

年末に、matsuiismさんのこちらのエントリーを読み、ブックマークした。
http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20061230
それぞれ東京のコミュニティーセンターに集まる10代の若者たちと、福岡の朝鮮歌舞団の女性たちと朝鮮学校の生徒たちをとりあげた二本のテレビ・ドキュメンタリーを詳細に紹介し、感想と、両者の関連についての考えが書かれたエントリーである。
たいへん興味深かったので、読んで考えたことを少し書いてみたい。


matsuiismさんは、エントリーの最後にこう書かれている。

2つの番組を見て思ったのは、西東京の若者たちの「家庭」に対する複雑な屈折した思いが遠心的な方向へ、「街」への彷徨に向かっているとすれば、在日朝鮮人の若者たちの「祖国」に対する複雑な屈折した思いは求心的な方向へ、「民族的アイデンティティ」の確立へと向かっているのではないかということだった。ただ、実際には逆のケースもありうると思う。日本の若者たちが集合的アイデンティティを求めて「愛国心」へ傾斜する場合や、在日の韓国・朝鮮人が生活上の都合その他で日本に帰化する場合など。


私はフリーターの問題も、たんに経済的貧困や労働条件の問題だけでなく、コミュニティ形成やメンバー資格の問題でもあると考えているので、そういう意味でこの2つの番組には何か響き合うものを感じた。もちろん、それぞれに固有の事情というものはあり、そうした個別的・具体的な事情を現実に即して考えていくことで、むしろ“共通の課題”が浮かび上がってくるのではないかと思う。


両者の関連として、コミュニティ形成の問題が浮かび上がるように感じられるということは、よく分る。
コミュニティセンターに出入りする若者たちについて、家庭や学校で「社会構造の圧力」をひしひしと受けているので、このような「構造化されていない」スペースの方がむしろ安心できるのではないか、とも書かれているが、これも分かるような気がする。
ぼくなりに整理してみると、二つの番組に登場する若者たちは、現在の日本社会というひとつの構造のなかで、同じ質の圧力を受けていると考えられる。それは、人々(ここでは、年齢の若い人たち)を今のこの国のシステム、ほんとうは「この国」にはとどまらないのだろうが、そのなかに構造化してはめ込んでしまおうとする圧力だろう。


そのうえで、両者が置かれている位置の違いについて考えてみる。
このエントリーで書かれている「求心的」、「遠心的」という差異はどこから出てくるのか。
朝鮮学校の生徒にとって、朝鮮学校という存在自体も、もちろん「構造化」の圧力を及ぼす装置としてありうるだろう。また、その「祖国」についても同様である。
だがここでは、日本という国家と社会による「構造化」の圧力の方が圧倒的に強く働いているので、学校とその周囲のコミュニティは、そこからの避難所として機能することになる。国家も、「ここ」ではない「祖国」という存在として、個人が社会全体の圧力から逃れるための象徴のようなものとして働く場合がありうるということだろう。
この人たちが、「祖国」や「故郷」に求心的にひきつけられているように見えるとすれば、それは個人の問題としては、日本社会全体の圧倒的な圧力から逃れ、最終的にはどの国への帰属にも還元しきれないような自己と関係性のあり方にたどり着くための方途であると、ひとまず考えられる。
逆に言うと、この「求心的」と見える段階を踏まなければ、その最終的な目標に近づきがたいという構造のもとに置かれている点に、この人たちの特異性があるといえるかもしれない。
これは、朝鮮学校の生徒や出身者に限らず、また在日朝鮮人ということにも限定されず、出自を日本以外にもつ人たちなど、もっと多くの人たちが自分の民族的・文化的なルーツの探究に向うことの解釈として、とりあえず妥当なものではないかと思う。
問題は、どの国にも全面的に帰属しないような自己と関係性のあり方を許容するような社会を、われわれが作れるかということだ。それが、コミュニティ形成の問題ということになると思う。


もちろん、とくに朝鮮学校とそのコミュニティの場合、ここには現在の日本という国家との関係という、重要な要素が絡んでいる。
コミュニティの問題を考える場合、現実にはその集団が、それを取り巻いている特定の国家とどのような関係(位置)にあるかということは、決定的な問題である。とくに国際政治的なことに限定しなくても、それはいえる。
たとえばある政策により、財政的な援助が打ち切られることによって、コミュニティや集団の存続が途端に難しくなるということは、どこでもありうる話だろう。これは、ここ十年ぐらいで、急速にその傾向が強まったのではないかと思う。
いま日本で「コミュニティ」と呼ばれているもので、国家の政策や論理の外に立って、そこに帰属する人たちに別の価値観を保障するようなものは少なくなりつつあると思う。つまり、コミュニティが、国家(とか資本)の装置にすぎないものになりつつある。
そうでないようなコミュニティは、段々存続しがたくなってきてる。
だから、「コミュニティ」という言葉の意味を、国家との関係ということに基準を置いて、再検討していく必要があるのではないかと考える。


話を戻そう。
先に「在日」の若者について、「求心的」という言葉を使ったが、ほんとうは日本人の若者との間に、この点における差異はないと思う。日本人でも在日朝鮮人でも、ほんとうに求めているものは、構造化の圧力から逃れるという一事だと、ぼくは思うからである。その意味では、すべての人のコミュニティ(集団性)への願望は「遠心的」であると考える。
「遠心的であるような集団性」という言葉は、矛盾しているように見えるけれども、ここで言われる「遠心的」というのは、社会全体を支配する構造化の力から逃れるという意味であり、つまり現実には国家や行政権力や資本の形をとってあらわれる力からの自由を個人(メンバー)に保障するような空間(集団性)を意味しているのだ。


もちろん、在日の子どもたちにせよ、日本人の子どもたちにせよ、そのすべてが社会の支配的な力からの自由を求めて、「遠心的」と見えたり、「求心的」と見えたりする探究を行うとは限らないだろう。
むしろ、そういう人たちは少数であるように思える。だが、多くの人は、その探究を行う過程で、「愛国心」や「ナショナリズム」や「集団への帰属意識」や「市民的日常」や「政治的無関心」や「消費社会」といった、「捕獲装置」(ドゥルーズ=ガタリ)に取り込まれていくということであって、探究をまったく志さない人はいないのではないか。


結論として、その人の属性に関わらず、「遠心的な集団性」という形態のコミュニティを探究しなければならない困難は、すべての人に共通するものである。
それは国家や、すべての構造化された集団性(そのコミュニティ自体をも含む)に対する距離と抵抗を、その人に要求するものだからだ。
ただし、matsuiismさんの文章で触れられていた「構造化されていない」スペースというものが、ただちにそうしたコミュニティのあり方へと結びつくものかどうかは、よく分からない。
今後、このへんのことについても考えていきたい。