補償と和解

記者の目:日韓関係、歴史和解を棚上げするな

http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20090225k0000m070125000c.html


たいへんいい記事だと思うが、書いてあることについてすっきりしないところがあるので、整理しておきたい。


基本的なことは、「補償」と「和解」は、元来別のものであるということだ。
植民地支配や戦争の時期に、被害を与えた側が、与えられた側に対して経済的な補償を行う、これは当たり前のことであって、これを完璧にやったからといって、和解の条件が十分整った、などとはいえない(まして、日本政府や企業に「完璧に行う」などという意思はない。)。


補償といっても、過去に自分たちが加えた暴力や搾取の行為を償う意味でのものもあれば、そう直接的ではなくとも、その過去の行為の被害者たちが生活に困窮してるのを見て、責任を感じて金銭の支援を行う場合とがあるであろう。
いずれの場合も、補償を受けとる側だけでなく、補償を行う側(加害者側)も、この補償行為によって精神的な利益を得ている、と考えられる。


もし加害者側が補償を行いながら、被害者を侮蔑したり、過去の行為を反省していない態度を示したり、信頼を損なうような行動を示せば、和解への道は台無しになってしまうであろう。
補償はそれだけでは、和解をもたらすものではないことは明白だ。


一方で、深い傷を心身に受けて経済的にも困窮している人たち、とりわけ旧植民地の人たちは、おおぜい居る。
この人たちの生活を救うために、「補償」という形で経済的支援を行う道は、人道的にみて当然模索されてよい。
上の記事中で触れられている「アジア女性基金」の構想と活動は、この意味で積極的な意義があったと考えられる。
人間の心の傷は金で償えるものではないが、傷を受けた人たちが救済されるのは当然なので、救済は「和解」とは別個に模索されねばならない。
そして、補償と和解は元来別物だから、この「補償」が真の「和解」への努力をなし崩しにすることに利用されるなら、その論理だけを非難すればよいのである。


ここで真の和解とは何か?
法的・政治的な解決にとどまるものではない。
補償金が積まれても、元首の謝罪の言葉や判決があっても、政治家による法的決定がなされても、それは人間同士の和解の条件を整える過程が進行しているというだけで、和解そのものではまったくない。
その過程を通して、償い得ない傷への理解や想像を、日韓両方の市民が深めていくということ、それが(永続的な)和解の実現、ということであろう。
そして、上記の記事にあったように、日本側は、この過程をまったく進行させないまま、口先の「和解」だけを私利のために唱え続け、被害者たちに強要しているのである。


ノ・ムヒョン政権が、日韓条約の内容を見直して、自ら被害者の救済・補償に乗り出したというのは、その手法に強引な面はあっても、被害者の救済という意味からは評価されるべき措置であろう。
そもそも条約締結時の両国の政治家の態度に非があったのだ。自国の被害者に対してその非を認め、救済を行おうとする。これは、救済を行わないでいるよりは、はるかに良い。
だが、日本政府の態度は、まったく非協力的であるという。
これは、たんに「和解を前に進ませていない」というような消極的な不正ではなく、その不誠実な態度によって真の和解のための条件を掘り崩し続けているという積極的な悪なのである。


国際経済の状況の変化から、韓日をはじめ東アジアの国々は、今後「和解」を急ぐことになるであろう。
だが今「和解」と呼ばれているものは、経済的・法的・政治的解決への真摯な努力を通した双方の国の人々の信頼の醸成が伴わなければ、真の和解の条件とはなりえず、歴史のなかの被害者たちの傷の深さを忘却するための装置に終わってしまうようなものだ。
この傷の深さから目を背けたまま、目先の繁栄や安定を追い求め続ける限り、われわれの心に真の和解の光が訪れる日は来ないはずである。