死刑にしてくれ

星島被告に無期懲役判決 江東区マンション女性殺害事件
http://www.asahi.com/national/update/0218/TKY200902180050.html


この裁判だが、公判中から報道のされ方を見ていて、納得のいかなかったことがある。
気づいてる人が多いだろうが、この機会に一応書いておく。


それはいくつかのメディアで、被告が自分自身を死刑にして欲しいと望んだということが、まるで死刑判決を後押しする(正当化する)根拠であるかのように報じられていたことである。


たとえば、被告がこのように言ったからといって、本当に反省しているとは信じられない、という意見はあるだろう。また、被告がどう言おうともこんなことをする奴は死刑にするべきだ、という意見もあるだろう。
だがどう考えても、被告が自分を死刑にして欲しいと述べたということが、死刑の判決を下すべきだということの理由になるとは考えられない。
「被告がこうしてくれと言ってるから」ということが判決の理由になるのなら、被告が「無罪にしてくれ」と言えば無罪判決を考えなくてはならなくなってしまうだろう。
だから、被告の「死刑にしてくれ」という言葉は、判決に関して、「判断材料にはまったくならない」という結論か、「反省してると見なせるから極刑にするべきでない」という結論かの、どちらかしかもたらさないはずだと思うのである。


もしかすると、被告が自分の量刑について述べた希望というものが、判決において考慮されるべきだという法規なり慣習があるのかも知れないが、ぼくが報道を目にして感じたのは、そのような違和感、つまり被告の「死刑にして欲しい」という希望と、「死刑判決が妥当である」という主張とが結びついてなされている(また、その連結が自明なものとされている)ような、不快な印象だった。


もしぼくが感じたように、この結びつきが報道において意図的になされていたものであるとすると、その理由はなんだろう?
考えられるのは、「死刑にして欲しい」という被告当人の希望を、判決内容(死刑)を決めるための根拠として正当なものであるとすることによって、「死刑に処している」という判定者(や、死刑制度を支持する一般の人たち)の葛藤、気持ちの重さを軽減しようという狙いだろう。
つまり、「これほど反省してるのだから死刑にすべきでない」もしくは「いや、それでもなお、死刑にすべきだ」という風に考えさせるのでなく、「当人も望んでるのだから、この死刑の判断をしたことを気に病む必要はないのだ」という風に考える筋道を、判定者の心のなかに作ってしまおうとしていると、考えられるのである。
この筋道は、裁判員制度が開始されれば、死刑制度を維持していくための重要な手段になるだろう。


無論、被告の希望(意見)を重視するということになれば、逆に「死刑にはしないでくれ」と言った場合には、死刑を決しにくくなるではないか、という反論もあるだろう。
だが、現在の日本の社会の趨勢は、制度としても通念としても、死刑の存続・拡大や、厳罰化が主流的な傾向となっている。これが、現実の条件(土台)である。
すると、この現実において考えれば、凶悪犯の「死刑にしてくれ」という言葉は、判定者を死刑決定の重苦しさから逃れさせる「判断停止」を容易にするものである故に判定者の心に響きやすく、逆に「死刑にしないでくれ」という言葉は、その重苦しさに判定者を向き合わせかねないものである故に判定者の心に響きにくい。そういう違いがあるのではないかと思う。


要するに、「死刑にしてくれ」という被告の言葉を死刑判決のための有効な材料であると考えることは、死刑や厳罰化が当然のことであるという一般社会の通念に従う形で(ということは、判決の重さに判定者が個として向き合うことなしに)、判定者が死刑判決を下すことを、容易にする効果があると考えられるのである。


そのような意図を、この件をめぐるいくつかの(とくに気になったのは、産経とNHKだが)報道に感じた。
だが実際は、そんな込み入った考えもさしてなく、被告の「死刑にしてくれ」という言葉を、死刑判決の正当化の根拠と考えるような粗雑な論理を自己肯定したいという、あからさまな欲望の表明に過ぎないのかもしれない。
だとすれば、まさに動物化した、無恥・凶暴な言説というべきだろう。