殻と震え

村上春樹氏がエルサレム賞受賞の講演を行った直後、「希望の卵」という題のエントリーを書いた。
そのなかで、次のように書いたのだった。

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090216/p1

村上氏は、(もしかすると)これまでの氏自身の思考の殻のなかで今回の行動とスピーチを行ったのかもしれないが、彼が「今この時」の現実を前にして迷い、さらにその迷いを言明し、そしてひとつの行動を行ったことにより、提示されたこの卵の殻には、すでに(誕生のための)ひびが入っていることが示されたのだと思う。


今でもだいたいこのように思うのだが、ちょっと言い足りていない部分がある。
それは、村上氏が提示した卵の殻にひびが入ってる、と書いたが、この殻は誰に属するか、ということである。


村上氏の行動と発言のなかに、ぼくは(いい意味で)「殻にひびが入る」という印象を受けたのだが、それは(村上氏という)他人において起きたことというより(それと同時に)、ぼくの身にも起きたことである。
ここで「殻を破る」というのは、その人の考えの枠を越えるとか、誤りや「偏り」を脱するとか、そういったこととは違う。違うとも言い切れないが、やはり少し違うのだ。
ぼくがいいたいことは、全ての人は(村上氏が言うように)それぞれ卵のようなものあるとしても、殻そのものは単一だろうということである。だから、誰かが、誤った行動かもしれないが、その人なりに決断して(迷いながら)思い切った行動に及んだ時、そのことによって、ぼく自身もまた(自分の)殻(単一だから、ほんとうは所有格がつかないはずだが)が破られたような気がして嬉しくなる、もしくは震える、そういうことである。
もちろん、そう感じることも、また誤りかもしれないが、誤りであっても、やはり人は震える。


殻は世界にただひとつしかなく、われわれは皆それを共有している。そのことに気づける人は少ないが。
「誰もみな、自分の殻を破って(脱して)」などと、相対主義的な寝言を言ってるわけではないのだ。
誰もみな、この単一の殻に対する責任、その痛みや暴力から逃れることは出来ない、ということだ。
ただそれぞれ、別個の「卵」である他ないから、この単一の殻に対する接し方はさまざまだろう。それは、その人でないと分からない部分がある。
ぼくもまた、自分の卵の内側から、この同じ(単一の)殻を、村上さんという人が破ろうとした気配を感じて震えた、というだけのことである(夢でなければよいが。)。


以上のようなことは、もう一月近く前になるけど、こちらのエントリーに少し書いた。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090201/p2


「殻」付きの比喩を使ったのは、ぼくの方がずっと早いということを、遠まわしに言いたかった。