反駁者たち

「村上春樹氏にエルサレム賞を辞退するよう働きかけよう」という動きに対する反駁の意見は、ネット上で散見される限り、次の二点が中心的であるようだ。


1 村上氏の文学は、その内容自体が、最終的に戦争やさまざまな争いの解消に向かうことを訴える性質のものである。今回のガザでの事態に関して(も)村上氏が作家としてなすべきこと、出来ることは、その作品を(イスラエルの人たちにも)広く読んでもらうことである。
だから、賞の辞退などの直接的に政治的と思われる方法はとる必要がない(そういう手段をとるかどうかは、本人の自由である)。


2 イスラエルの人たちに対するアプローチとしては、賞の辞退などの直接に政治的・批判的な手段よりも、村上文学を広く読んでもらうことで「平和」への志向を深めてもらう、いわば精神的に平和を尊重する方向に進んでもらうという手段の方が、むしろ有効である。
直接的な働きかけは、無力であるに決まっているか、反発さえ呼び起こしかねないのであり、文学を通じた感化のような方法こそが、真に有効な平和への働きかけなのだ。


「平和」という風な、はっきりした言葉は使ってないかもしれないが、おおむねこういうことだろう。
1については、文学作品がどういうメッセージを内容として持っているかということと、賞の辞退(や批判的なスピーチなど)といった具体的な行動とは、まったく違う次元のことであるはずなので、前者を有していることが後者を行わないでよい理由になるとは思えない。
村上文学がどういう内容を持つものであろうと、それとは別に(必要と思うなら)具体的行動をとればよい。とらなければ、行動の次元においては免責されない。それだけのことである。
「免責されない」というのは、その行動に対しても「行動しなかったこと」に対しても、自分なりの責任を否めないはずだ、ということである。
もちろん、村上氏自身はそんなことはよく分かってるに違いないが、(行動への)反駁者たち(「具体的な行動」を快く思わない人たち)は自分の疚しさを免れたいから、それを認めたくないのであろう。


2についてだが、まあ、文学作品を読むことと、賞の辞退とか批判的なスピーチなどの直接的な非難の声や行動に接することと、どちらがイスラエルの人たちの考えを変えさせるのに効果があるかなど、誰にもはっきり分からないだろう。
実際、国連の決議など、国際社会は繰り返し(不十分ではあるが)イスラエルの占領や戦争行動を非難してきたが、イスラエルという国は無視し続けており、世論もそれを支持してるようにみえる。
ここから、こうした行動が無力ではないかという考えも生じるだろうが、同時にこれらの非難や行動が、まったく不十分であったことも事実である。
何より、現状(イスラエルのやっていること)はとにかくひどいのであるから、それに対する批判の声はあげ続けるしかない。
効果があるかどうか分からないなら、そしてこれまでの行動が十分でないと思える余地があるなら、さらに行動すべき理由、行動を否むべきでない理由は十二分にあるのである。
村上文学を読んでもらうことの方が良い方法だと思う人は、自分で村上作品をイスラエルの本屋に売り込めばよいのだ。


いずれにせよ、村上氏に何らかの具体的行動を求める動きを、批判する妥当な理由は認めにくい。
ぼくもこうした動きに賛成だが、その真意は、なんらかの客観的正義の理念にもとづいて、村上氏の行動の自由を制約しようとするところにあるのではない。
虐殺や占領や封鎖といった、現在起きている事態を変えるために有効と思える、少なくとも有効である可能性のある方法がここにあるのだから、それを使って欲しいという声を村上氏に届けたいのであり、またそのような行動をとらないことがどんなメッセージをイスラエルの国や国民(及び日本を含めた読者・市民)に与えるか、熟慮して欲しいという声を、村上氏に投げようとしているのである。
しかしこうした動きへの反駁者たちは、このような「声」の現出そのものが、鬱陶しくてならないのであろう。


上記の1、2から分かるのは、これらの意見を述べる人は、あからさまな「イスラエル擁護論」とか「占領・侵攻賛成論」のような意見を述べてはいない、ということである。
みな、戦争や、「イスラエルの行き過ぎ」や、「終わりのない紛争」といったことを「憂慮」しているらしい。
平和な日常のなかに身を置きつつ、遠方の戦争や紛争を憂慮する、それがこの人たちのポジションであり、この人たちがもっとも嫌うのは、そのポジションの平安が乱されることだ。
今回の動きにも現われているような「声」の存在は、憂慮するばかりで何の行動もとらずにいるこの人たちのあり方を批判するものに感じられ、気持ちの平安が乱されるので、それに反駁して「声」を抑え込み、「自分たちは行動しないことによって、かえって平和に貢献しているのだ」と思い込むことで疚しさから逃れたいのである。


今回、イスラエルエルサレム賞の受賞者に村上氏を選んだことに、どんな意味があるのかは分からない。
だが、浮き彫りになってきたことは、村上氏自身は別にして、その読者層の一定部分の心理が、イスラエルによる占領や虐殺行為を容認し支えている論理と、親和的であるようだ、ということである。
それは、自分たちの平和な日常を最優先し、その平安を守るために、さまざまなロジックを用いて社会の中の「声」を抑圧・排除しようとする心理であり、それが当たり前の行為だとする論理である。


反駁者たちは、「イスラエルの人たちの考えを変えるにはどうするか」などと、あたかも自分たちは正しい(平和を尊重する)位置に居て、不幸にも道を誤った人たちを優しく教化するかのような口ぶりで物を言う。
だが実際には、虐殺や不正義の論理を担っている主役は、(直接に紛争の現場に近い場所に居るイスラエルの人たちよりもむしろ)自分たち自身なのだということに、この反駁者たちは気づかない。
無論、われわれの声や行動が、本当は日本のこの人たちにこそ向けられたものであることには、なおさら気づく余地が少ないのである。