土井正三

日曜の深夜、大阪毎日放送の「映像09」というドキュメンタリー番組の枠で放映されたもので、ぼくは最初の三分の一ぐらいを見逃してるはずだが、とてもいい内容だと思ったので書いておきたい。


巨人V9時代を支えた名内野手、ある意味象徴的なプレーヤーであり、後にオリックスブルーウェーブの監督も努めた、土井正三氏。
この番組では、癌と闘う(とりあえず、この言葉を使っておく)土井氏とその夫人の姿を追い、土井氏の発言を紹介すると共に、当時のさまざまな関係者たちの証言と貴重な映像によって、土井氏の野球人としての足跡をふり返った。


土井が象徴的なプレーヤーだというのは、V9という黄金時代を現出し、日本の野球を決定的に変えたと言われながら、一方で個性を否定しプロ野球の魅力を減退させるきっかけになったと批判されることも多い、川上元監督の野球のスタイルを、もっとも代表している選手に思えるからである。
二塁手であった土井の生涯打率は、二割六分そこそこ。タイトルをとったことはなく、現役生活の最後にダイヤモンドグラブ賞に一度だけ選ばれたのが、一選手としての唯一の勲章ともいえた。


土井氏自身をはじめ、王、堀内、福本、川上哲治(声のみ出演)、西本幸雄ら当時の選手、監督と、審判、マスコミ関係者ら、数多くの人たちの証言によってつづられる回顧談のなかでも、とくに印象深かったのは、プロ野球史に名高い69年の阪急との日本シリーズにおける「奇跡のスライディング事件」(仮称)のことである。
巨人の2勝1敗で迎えた西宮球場での第4戦、劣勢であった巨人は4回に入って反撃に転じる。2点差に迫って、なお無死一、三塁。この場面で、一塁走者が盗塁を試み、捕手が二塁に送球するのを見た三塁走者の土井は、果敢に本塁に突入する。カットしてバックホームする阪急の内野手。土井のスライディングをブロックするのは、当時名捕手と言われた阪急の岡村である。
タイミングは、明らかにアウト。この瞬間の映像が何度も流れていたが、たしかにどう見ても土井の足はホームベースを踏んでいないように見えた。
だが、この日の主審だった岡田はセーフと判定する。岡村をはじめ猛抗議する阪急側。判定は覆らず、これを契機としたかのように試合の流れは一気に巨人に傾き、大勝することになった。そしてそのまま、巨人はこのシリーズをものにする。
試合後、岡田主審を囲んで誤審ではないかと詰め寄る報道陣。新聞の紙面は、はやくも「世紀の大誤審」という見出しを印刷し始めていた。また、巨人の選手たちでさえ、土井が実はベースを踏んでいないのではないかと疑ったという。
だが、ある報道カメラマンの写真は、テレビでさえ捉えられなかった、岡村のブロックをかいくぐった土井の足がホームベースを一瞬踏んだ瞬間を、鮮明にファインダーの中にとらえていた。
翌日の新聞紙面は一転、土井の美技と球審の名ジャッジを褒め称える内容となった。


この時のことをふり返って、病床の土井は、「あの場面は、阪急の守備にもミスがあったし、自分が本塁に突入したこともミスだった」と語る。
点差、状況を考えれば、自重するべき場面だった。
その「ミス」が、結果としては勝負の流れを変えたのだが、それはやはりミスであったと、土井は言うのだ。
ここに、川上V9野球の申し子とも言うべき、彼の野球観が示されてる気がした。


また、オリックスの監督時代には、二つの点で批判されることになる。
ひとつは、当時のオリックスの売り物であった強力打線を重視せず、外野のフェンスまでが遠くホームランが出にくいという新しいホームグラウンドの特徴に合わせて、守備や機動力に重点を置いたチーム作りをしたことが、主力選手とファンの不評を買った。
もうひとつは、(これは今の視点から言われるのだろうが)、当時有望な新人として注目されていた現イチロー選手の「素質を見抜けず」、二軍に置き続けたとされることである。
後者については、川上氏の証言があり、土井氏は、イチローの素質を見抜いていたが、それゆえにチームプレイの大事さを教えるために、あえて二軍暮らしをさせたのではないか、と言う。当時土井氏は川上氏に、「鈴木(イチロー)といういい新人がいるのだが、ただ生意気なんだ」という意味のことを言ってたという。
これも、土井氏の野球観(そして、プロ野球のあり方の変遷)がうかがわれるエピソードだろう。
ついでに言うと、阪急から宮内オーナーの率いるオリックスへという変遷も、阪急ファンであったぼくには、とても感慨深い。


番組の最後では、急に病状が不安定となり、時折意識も朦朧となり始めた土井氏の様子が映し出される。
土井氏が癌の治療を受けるようになってから、かつての師であった川上氏は、土井氏の気持ちを慮った手紙を送って、土井氏を励ました。
そのことへの感謝を語る病床の土井氏は、遠くを見るような表情で、カメラに向かって、たしか三度、こう繰り返す。


『川上監督は、V9戦士を大事にしてくれたよね。』


ここに、管理野球の元凶のように揶揄され続けた川上野球の、人間同士の営みとしての、ひとつの真実の姿が示されているように感じた。